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先日来、友人の酒井泰斗さんのツイートで知ったWorkFlowyを使っている。その使い方を知るために、概説書をいくつか読んでみた。私は大学生から院生にかけて、よく知的生産術関係の本を読んでいて、どうやって研究すればよいのかということを自分なりに考えてきた。ある程度、方法が確立したら、あまりそういうものを読まないので、今回は久しぶりにそういうものを読んだ。完全に浦島太郎であった。この分野はどうやら今はネット上ではライフ・ハックという名前で展開している。今でも本屋の棚で使われている昔からの言葉でいえば、仕事術といったところだろうか。

それでいくつかの本を読んだのだが、私が読むべきだと思ったのは二冊。とりわけ、その中でもすごかったのはTak.さんの『アウトライナー実践入門』である。それから、Tak.さんも自分の本と補完する形で位置づけている彩郎さんの『クラウド時代の思考ツールWorkFlowy入門』である。私がわざわざエントリを立ち上げた理由は二つあって、一つは『アウトライナー実践入門』のアマゾン評価が一つだけあるのだが、低すぎること。もう一つは、この6月中はキャンペーン中で『クラウド時代の思考ツールWorkFlowy入門』がKindleで500円になっていることである(先月、買ったばかりなのに!まあ、それでもその価値は十分あった)。

『アウトライナー実践入門』にははっきり言って蒙を啓かれた。この本はもちろん、必要最低限のソフトウェアの使い方も説明しているのだが、いわゆる解説本ではなく、それがアウトライナーの性格を考察する上で、必要な素材として登場している。実際、詳しい使い方については『WorkFlowy入門』やその著者のブログなどを紹介して、そちらに譲っている。だから、これは知の道具としてのアウトライナーを徹底的に考察したものである。

この本の中で、ああそういうことかと分かったのは、Wordのようなソフトは文書を最終的に仕上げることが念頭に置かれていて、アウトラインモードもアウトプット段階が想定されているのに対し、アウトライナーは文書を書く前の準備作業的な段階で活躍するということだった(5.1)。結論だけ言えば、そういうことになるのだが、この本が面白いのは具体的なやり方よりも、そのソフトウェアの設計思想的な面を掘り下げていることにある。こういうタイプの本は日本では実はあまりなかったのではないかと思う。

ざっと見た感じでは、著者はおそらく40代後半から50代前半くらいで、90年代から20数年間の(IT関連?の)仕事での経験、それから、いわゆる日本の知的生産の技術関係の本や英語のハウツー本を読んでいるのではないかと思う。80年代くらいの記述が同時代的な観察なのか、それとも本から得た知識を披露されているのか、私には判断がつかなかったが、90年代以降はかなり同時代的観察だと思う。ソフトの発展に付き合ってきたユーザーであることは間違いない。ご自分で技術がないという書き方をされているので、おそらくはプロジェクトマネジャーになって、プログラムの一線からは下がられて、管理をされているのかなというのが私の想像である。

こういうタイプの本は、実は20年くらい前にはほとんどなかった。もともと『知的生産の技術』以前のノウハウは、どうしても心構えの話から切り離しがたく、そこをドライにばっさり言ったのが梅棹先生の革新的なところだった。その後、こういうものは学者やジャーナリストのような、お金をもらって文章を書くという意味で、プロの人たちが書くものしかなかった。他方で、ガイドブックも入門レベルの操作ガイドというものが圧倒的に多かったと思う。これはPC関連だけでなく、ハウツーもの全般に言える日本の特徴で、入門書から次のステップに行く本がどの分野でも手薄になりがちである。そこはさすがプラグマティズムの国、アメリカはもういいよ、というくらい原理的なことも書いてある。

自分の仕事経験とそれを考察するための勉強をらせん状のように、少なく見積もっても20数年以上、繰り返して深めてきた人が惜しげもなく、そのノウハウを披露しているというのがこの本の魅力である。たとえば、さらっと、官公庁の文書を読むときに、その文書を取り込んだら、筋が読みやすくなったと書いてある。官公庁の文書は、たとえば白書の概要をみれば分かるが、非常にポイントを絞って、よくまとめられている。ただ、これはこういうものに慣れたら読めるのであって、そのためにこういう読み方があるのか、ということが勉強になる。実は、これは結構重要なことで、かつて小河原誠さんが『読み書きの技法』ちくま新書という名著を書かれたのだが、読むことと書くことを一体の技術として掘り下げられていた。おそらく著者は経験から学んだことをさらっと書いているだけなのだが、実は、この経験から学んだことが原理的に考え抜かれたこととズレていない、というのがこの本の面白いところである。一つ一つ解析してもいいが、そんなものを読むより、ぜひこの本を読んで欲しい。

しかも、すごいのは徹底していることだ。一つは、これまたさらっと、お勧めはしませんが、私は本を全文書き写したこともあります、と書いてある。わざわざ書いてあるというのは、それが完全に無駄な経験だと著者が思っていないことを表していて、しかし、忙しい人たちにそれを勧めるのは現実的ではない、ということを承知しているのである。逆に言えば、これを読んでやってみようという人は感覚の優れた人たちである。写経的方法は案外と功徳があって、論理を追えるだけでなくて、それを書いた人の文章の生理のようなものが分かる。現代では、浅田次郎が三島由紀夫の小説をかつてすべて書き写して、文章修行したことが有名かもしれない。私も昔、尊敬する先生の博士論文の序章を書き写したことがあるし、読めない資料を頭から書き写していったことがある。頭で理解できないときは手を動かすというのは大事な経験則だと思っている。

もう一つ、圧巻なのは文書作成のプロセスを詳細に具体例で示しているようである。おそらくレポート指南の本でもここまでプロセスに降りて丁寧に議論しているものはない。本多勝一の『日本語の作文技術』のなかの文章を細かく切り刻んで分析したり、丸谷才一の『文章読本』における大岡昇平の文章を素材にしたレトリックの解析などはあっても、プロセスを追って思考が深まっていくというのはなかなか見れるものではない。本書の「3.1メモを組み立てて文章化する」とPart7の「フリーライティングから文章化する」は必読である。

あと、こういうタイプの本の常として、対談や鼎談が利用されており、それもまた有益な視点を提供している。いろいろあるんだな、というのが分かるので。

とにかく読んで、使ってみて下さい。あとで、三段落目からこの直前までをアマゾンのレビューにコピペしておきます。
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濱口先生から問題提起をいただいたのですが、すっかりお返事がおそくなりました。すみません。

私はこの日本で「公正」という概念を探求することに意味があるとは考えません。それは公正という概念が法学や思想の言葉であったり、あくまでヨーロッパ由来の概念で、それが多くの日本人の思考様式に定着しているとも思えないからです。もう少し範囲を限定した「公正な賃金」についても、それを原理的に探求することが重要だとはまったく思いません。ただし、これはあくまで日本では、という限定つきの話です。

結論だけ言ってしまえば、公正は常に目指しておくべきものであって、公正な賃金はあくまで社会において公正が達成できた後に賃金として具体化するのであって、賃金を変えれば、社会の公正が達成するというのは、賃金制度を変えれば経営改革が実現できると考えるのと同様に倒錯した話で、そのようなあるべき「公正な賃金」は少なくとも私は存在しないと考えています。もちろん、その達成すべき公正に向かうための順番としてパターンセッターに賃金が来てもいいわけですが、個人的にそれは難しかろうと感じています。

1970年代、福祉国家の見直しが行われた時期に、社会政策の見直しも行われ、その中で香川大学の木村正身先生が「労働条件と福祉条件」という論文を書かれました。その最後の結論が生活ニードの充足または福祉は反福祉状態からの回復というネガティブな形で具体的に検証されるとしました。この考え方は、実はここだけではなく、日本人の「権利」理解にも通ずるところがあります。それは権利が侵害されている反権利状態において、はじめて権利の意味が理解されると言い換えることが出来るでしょう。私は正直、驚いたのですが、わりと尊敬する友人も権利をそのように教えているという話でした。これは裏返すと、「権利」というと左派が文句を言っていてうんざりするという反応になるわけです。

しかし、ヨーロッパでは最大保守のカトリックのカテキズムのなかにも、というよりは、カテキズムのなかにこそ「人権」概念の説明があります。私自身はカトリックではないですが、カトリック的な思想はわりと好きなので、抵抗感はありません。なぜ、カトリックの話を出したかと言えば、人知を越える秩序(もちろん自然法も深く関わっています)が、現在、それを信じるか信じないかは別に、思想的に脈々と受け継がれているからです。本当はそこに体験しているかいないかという軸もあり得るのですが、それは除外しておきます。なお、第二バチカン公会議ではカトリックは他宗教のうちにみえる真理のあり方も認めるようになりましたし、キリスト教からもジョン・ヒックのような宗教多元主義も出て、スピリチュアリティを重視する立場はわりと広く見られます(日本でも宗教者災害支援連絡会はこうした理念を共有していると言えましょう)。

もちろん、その普遍的な意味を重視しない立場もあり得るわけで、尾高朝雄の「法哲学における形而上学と経験主義」はその一つです。端的に言うと、尾高は経験は誤ることもあるのだから、正しい経験に上書きすればよいという相対主義を提示していて、その論理だったら自然法はいらなくなるし、実際いらなくなると言っています。ただ、自然法というか、キリスト教における経験とは元来、ある種の神秘体験、絶対的な体験を意味していたのだろうと思うので尾高的な議論が正しいとも思わないのですが、この現代の法治国家においては、尾高の方が現実的でしょう。我々は自然法の思想的流れを引き継ぐコモンローで、いかに妻が夫の従属物であると言われても、まったく説得されないわけです。こういうのは男女の性的役割分業や多様な性のあり方を問い直してきたジェンダー研究や、作られた意味の問い直しをしてきた社会構築主義に多くを学ぶことが出来るでしょう。

ここで終わると話が進まないので「公正な賃金」にうつりますが、結局、相対的にどう納得させるのかという話に過ぎません。相対的価値観を前提とした世界のなかで、どれだけ多くの人を納得させるロジックを持てるのか、というコトになると思います。そして、濱口先生が考えているのはこの意味での労働組合が人々を納得させる賃金の主張をするということでしょう。ただ、今のところ、公正の概念は、権利が毀損されている状態の人を通じてだけしか持ち得ません。この場合、多くの人が気の毒だなと認める場合には、そういう共通了解が得られやすいのですが、それが回復されるべき権利という思想信条によってなされるのか、たんに気の毒な状態を誰もが見たくないだけなのか、よく分かりません。

日本にも比較的広まっている「公正な賃金」に近い考え方にフェア・トレードがあります。これはイギリスで始まった発展途上国からの商品にちょっと高めにお金を払って、そのお金で彼らの所得(賃金だけではないので)を向上させようという考え方です。どれだけその理念に賛同しているかは別にして、東京にいれば、フェア・トレードを掲げたコーヒーを飲むことも珍しくはありません(というか、説明書きを読まないと気づかない)。でも、これも突き詰めれば、国際的な児童労働においては子供たちが福祉を毀損されている状態に対しての異議申し立てであり、それを他者を糾弾するのではなく、連帯の力で変えていこうという話です。

連合の須田さんも公正な賃金などないとおっしゃっています。その言いたいところをまとめると、最初から公正な賃金などというものが存在するのではなく、みんなで納得が出来る賃金を作っていくしかないんだということです。須田さんは別に尾高の論文なんか読んでないと思いますが、結果的に彼の理念に近いことをやっています。

それでもなぜ「同一労働同一賃金」という言葉に多くの人が引きつけられるのでしょうか。同一労働同一賃金という言葉が一体何を指し示すのかというのは昔から議論があったところで、なかにはそういう曖昧な表現が良くないから、同一価値労働同一賃金と言うべきだという主張もありました。しかし、結局、今でも人々の間に残っているのは「同一労働同一賃金」という表現です。それは男女差別を解消する、後に人種差別を解消する、差別という社会的な不公正を解決する、そういう理念として受け取られてきたからです。

昔、何十年も前、ある大物政治家が予算を持ってきてこれで保母さんたちの賃金を上げてくれ、やりかたはお前たちに任せるといってきたそうです。当時の担当の方たちは、彼女たちの賃金を上げようと工夫しますが、結局、他の公務員とのバランスで、大して上げられないで終わってしまったそうです。その話を聞いたときに、賃金論なんかに意味があるのかということを言われたのですが、それに対して、私は意味なんかないですよとお答えしました。ただ、一つ言えるのは、賃金を変えて社会を変えようとするのは社会改革である。社会改革をやると思って漸進的にやるしかない、と。

思想というのは、そんなに複雑なものは不要なんです。敵を含めた他者へのコンパッション(愛情といってもいいですが)と社会をよくしようという社会改良主義を胸に秘めていれば、それで十分です。あとは最後まで投げない根気じゃないですか。

このようにまとめてしまうと、ずっと議論してきた年功的な賃金(ないし職能資格給)的な世界だけで成立していかなくなっているのに、それに代替する制度(たとえば、職務分析にもとづく職務給ないし職種給)について論じていないではないかと言われそうです。まあ、しかし、その問題はその問題で重要なのですが、持続可能性を担保してどのように制度を考えていけばよいのか、その設計思想にはどういうものがふさわしいのかという議論は、別に公正な賃金論とは関係ないんですね。

それについての私の考えは、約めて言えば、賃金だけで考えていても仕方ない、社会保障もセットで考えなければならない、地方単位ではなく国家単位で考える必要がある(シビル・ミニマムではなく、ナショナル・ミニマムで)、ということですが、これ、もういろんなところで書いているし、言っても来たので、今回は繰り返しません。一つだけ、日本的雇用システムを補完する財形貯蓄はいいんですか?と、組合と経営者の労使だけが制度を作ってきたわけじゃないですよね、と確認しておきたいと思います。