2017年9月24日(日)に第一回社会政策史研究会を開催しました。報告は東大の院生の坂井晃介さんの博士論文構想報告で「19世紀後半ドイツにおける「社会」概念の社会政策的含意」でした。50分くらいの報告の後、2時間くらいの熱がこもった議論が展開されました。報告者を入れて9名です。

おそらく研究会のレポートだと、発表内容や発言について正確な趣旨で理解した上で、紹介しなければならないのですが、実際にはそういうことは難しいし、そもそも報告者はともかく参加者のお名前を紹介の許可を取ったわけでもないので、そこで展開された議論から、私が面白かったなあ、示唆を受けたなと思うことを備忘代わりに少しまとめておきたいと思います。

大きく分けると、方法の問題と概念をめぐる資料についての議論がメインでしたね。特に研究会で一番議論が熱くなったのは、概念をめぐる議論でした。原語のニュアンスが伝わる用語選択がよいのではないか、とか、そもそもテクニカル・タームは昔みたいに原語でよくない?という話も出ました。ここからが表現が難しいのですが、同時代的な一般的な広い用法と、後の時代を牽引していくような重みのある使い方をどう扱うのかというような話ではないかと思います。たとえば、社会国家、福祉国家につながるような言葉が19世紀にあったとして、その一つはゲゼルシャフトかもしれない。でも、当時の人も、おそらくその後の人も、日常語として使う場合もある。この多様な使い方に注目する意味がどれくらいあるのか。また、ゲゼルシャフトという言葉は使われていないかもしれないけれども、後生の人がゲゼルシャフトをめぐって議論することは、当時は別の用語で使っているかもしれない。そういう類似の用語を見つけ出して、19世紀に福祉国家の発想の源泉を見出すということとある時代に使われていた一語の多様な使い方を明らかにすることととは方向性が違うわけで、そのどちらを目指すのか。

私が関わる近年の研究会では、基本的にはどうすべきか、というよりも、報告者が何をやりたいのかという問題意識の確認をするようにしています。だから、研究会での質問も自然とそういうものが多いですし、私からも最初に意図してそういう仕方で質問をして流れを作っています(主催でなくても、そういう質問をすると、上段からの若者叩きを止めることが出来ますから)。そういう共有しようという基盤がないと、少なくとも学際的な対話は難しいように思うんですね。ただ、録音データを聞き返したら、参加者の方がその方針に徹してくれていました。やっぱり20代は体力があって、こちらは後半、疲れてくると、緊張感が明らかに落ちていますね。ただ、ここは個人ブログなので、遠慮せず脱線しますよ。

ちなみに、7月に準備会をやったときには、適切なマウンティングが必要という意見もあって、そのバランスは難しいなと思います。適切なマウンティングというのは、たとえば単純に知識不足による誤解などの訂正とかです。これは本当は一番難しいんだな。

用語分析、概念については、自分で集めた資料ではなく、誰かが編纂した資料集を扱う場合、その編纂そのものについての分析ないし観察が必要じゃないか、という議論が繰り返し行われました。こうまとめると、見えなくなるんですが、研究会では重要なテーマが形を変えて(言い方、アプローチを変えて)繰り返し出てくるというのは、私は結構よい傾向だと思っていて、内在的な疑問を出していって、それに対して様々な表現方法があり得るわけで、そういうものが出てくるというのはやはり全体で理解を深めようという気持ちの表れだと思うので、とても生産的だと思います。というか、普通に気分がいいですよね。

資料集編纂はわりと簡単に分かるんじゃないかという発言があったので、適切なマウンティング・チャンス!と思って発言したんですが、希少な資料だから入れるという価値判断もあるし、統一的な編纂方針だけで貫徹し得ないという話と、もう一人の、そもそも編纂者が意図していることが実現できているかどうか、あるいは意識していないでやっていることも考える必要がある、という意見があって、これはなかなか重要な論点です。私が大原で資料復刻を考えるとしたら、価値が高いけど、わざわざ多摩の山奥まで来てもらうのも大変だし、もっと広く知って欲しいなというやつを入れたいと考えそうですね。この場合の価値が高いは、わりと広い分野の人に役立つという意味です。編纂者は一人じゃないから、いろんな人の意見がぶつかって、すりあわせたり、より良いものになったりするわけですから。

個人的には、今後、一次史料を使っているということの価値は急速に下落していくと思います。それは世界的にデジタル・アーカイブスが充実してきているからで、日本はまだまだ遅れていますが、それでも国立公文書館のものなんか政策史研究ではなかなかの衝撃度です。私、この夏書いていた論文は、大原の資料はともかく、公文書館のデジタルアーカイブスを結構利用したのと、社人研の館文庫、それから一橋の美濃口旧蔵資料をインターネット検索で見つけて、実際に見に行きました。その直近の経験からすると、まだ昔ながらのやり方と、これからのやり方の過渡期だなとは思います。それでも昔だったら、一本の論文書くのにこんなにたくさんの一次史料は使わなかったですね。作業を始めたときは、大原の協調会文庫で見つけた資料と館文庫で、一次史料使うことで付与される価値はクリアと思ったんですが、後から論点に関わる資料がガンガン出てきたので、作業量的には参りました。

なんでこんなことを書いたかというと、歴史研究は相変わらず、誰も使ってなかった一次史料を使っただけで与えられる研究のオリジナリティに依存しているところがあるけど、昔からそれだけではダメだという人はいて、たとえば私の知っている限りだと、橋本寿朗先生の追悼に武田晴人先生が書いたのはそのことでした。『戦間期の産業発展と産業組織』の解題に書いてあると思います。もう明確に、研究が進まないのは一次史料がないからではない、二次史料でも出来るんだぞというメッセージでした。経済史とか経営史の先生方は理論的なバックグラウンドも当然、勉強されていて、私の印象だと深く勉強しているほど表に出さないで、割と軽い人はちょっと読んですぐに論文に入れちゃう。そういう隠れた力がこれからものを言う時代になるんじゃないかな。そこ行くと、歴史社会学もやりようによっては存在価値を示すことは全然可能だと思います。

それにそもそも、歴史研究をやっている人間からすると、十数年もやっていれば、自分が分析できるだけの資料の量よりも多くのまだ誰にも扱われていない一次史料の所在知識が入ってくるわけで、そういうキャリアに入った人が使われていない一次史料を使いましただけというのはやはり物足りないと思うんですよね。その研究が史観を変えるくらいであれば最高ですけど、少なくとも分析手法とか、着眼点とかに新味が欲しいですよね。

さはさりながら、この理論とかテーゼとか方法とかを取り出してきて、歴史を解釈するというのは相当に難しいんですよね。坂井さんはたまたまルーマンを扱っているけれども、ここに別の人が当てはまっても同じなんです。ここで説得力を出すには相当の準備立てをしなければならないんですよね。当日、私が下手をすると、どこからでも叩かれやすくなってしまうリスクがあると言ったら、他の参加者から、誰からも叩かれるというのは、広く問題提起しているんだという画期的視点が出されました。汎用性が高いので、ここに紹介しておきます。みんな、どんどん使って、いろんな人を励まして下さい。

それはともかく社会政策に関連するところで言うと宇野経済学の段階論がここで苦しんできたわけです。かつて1990年代前半まで宇野経済学の段階論はそれなりに影響力を持っていましたが、今ではほとんど振り返られないです。宇野経済には三段階論があって、原理論、段階論、現状分析(歴史も含む)の三層に分かれています。一応、理屈ではこの三つは相互に連関しているんですが、実際は難しい。私、これにこだわって、三年くらい宇野段階論、考えてました。あるとき、原論で有名な先生と飲んだ席で、この三つを本当に貫徹できるのかという話を聞いたら、そりゃ無理だよと笑って仰ってて、そりゃそうだよなと得心しました。

抽象度が異なる次元で、それぞれ意味はあるんです。ただ、すごく抽象的な理論と、すごく具体的な現状分析(普通で言う歴史研究)は基盤があるから、研究も蓄積されやすいんです。前者はいわゆる主流派経済学や厚生経済学を見てもそうだし、後者は歴史研究、少なくともある時期までの私が知ってた頃の日本経済史にはそういう基盤があった。でも、段階論的な立ち位置は難しい。ディシプリンを異にする領域でも同じだと思うんですよね。方法的な拠り所があまりないから、基本的にはどれだけもっともらしいことを言えるか、というところで勝負することになる。丸山一門とか講座派とかこういうタイプの人、多かった気がします。もちろん、それに意味がないわけではなく、重要なんですが、うーん、そこで勝負するのは厳しいです。ここは結構、悩み多いところですよね。

ということで、第一回なので、丁寧にエントリを書いてみましたが、次回以降、こんなことをやって続くわけがありません(そもそも私はあまり録音を聞かないのです)。今回は最初だから、自分なりに今後の研究会を考える上でもアイディアを整理するために書いてみました。

ホームページも作ったので、よかったら、ご覧になってください。
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もう、あと2週間弱になってしまったので、完全に紹介が出遅れてしまったのですが、新宿の紀伊国屋書店で「『ワードマップ現代現象学』刊行記念フェアいまこそ事象そのものへ!」が開催されています。私もすぐに出かけて行って、ブックレットをもらい、ワードマップその他数冊、買ってみたのですが、このブックフェアは社会福祉系の人たちにとっても、すごく有用だと思うので、ぜひ首都圏にいらっしゃる方は店頭にお出かけになるといいと思います。

といっても、私は現象学がどういうものかまだ十分に理解していないので、その方面からこのブックフェアの価値を語ることは出来ないのですが、それでも行った方がいいと推薦します。その理由は二つです。

一つは、このブックフェアが酒井泰斗さんのプロデュースによるものだということです。酒井さんは幅広い問題を勉強され、そのトピックで誰に書いてもらったらよいものが出来るかという、自己本位、そうここが重要なポイントなんですが、消費者運動として自分が読みたいものを集めています。それでこれだけの人が協力して、書くということは、書き手もその価値を認めているということで、これはプロデュース力以外の何物でもないのです。客観的にどこがどういいか分からないですが、私の勘ではよいと思います。

もう一つは、「ケア」に関する哲学的な、あるいは理論的な考察を深めていく材料がたくさん散りばめられていることです。このブックレットの中にも「ケアと看護」というそのものもあって、なぜ現象学的な考察がこの分野で出てくるのかということが少し分かりました。それ以外にも心理学と密接に発展した行動科学だとか、人間科学だとかは酒井さんがここ数年、調べているところですが、それに関連する問題も出て来ます。「ケア」は時代によってはフロイドの精神分析の影響を受けたり、ロジャーズの来談者中心療法の影響を受けたり、そのときどきの心理療法の影響を受けていたりします。

この論点は意外と労働問題とも深いかかわりがあります。というのも、テイラー(ないしギルブレス夫妻)が始めたと思われている動作時間研究ですが、実際に同時代にこれらの研究を進めたのはアメリカでも日本でも実験心理学研究者です。それは簡単に言えば、心そのものは捕まえられないので、人間の「動作(ないし行動)」を代理指標に研究していたからです。これが心理学が科学化を志向したこととも関わっています。実際、アメリカの人事研究者というのは長く心理学者でしたし、職務分析は今なお、心理職の重要な仕事です。分野的には組織行動論がそういうタイプですね。

心理学は教育学にも大きな影響を与えて来ましたし、教育と労働は近接だし、歴史的にも社会政策では研究されてきました。そういう意味で、ここら辺はとても興味深い分野です。ただ、正直言うと、ここまで読んだ皆さんもなんだか分かったような分かんないなという感じでお付き合いいただいたと思いますが、書いている私もよく分かっていません。心理学のディシプリンと関連諸科学がどうかかわってきたのか、どう理解すればよいのかは、私の中では実にモヤっとしていて、ずっと気にかかっています。これもそのうち、集中的に勉強するかと思っていますが、このブックレットはその時の水先案内人の一人になるはずです。

というわけで、こんな感じの問題関心の文を読んで、フェアに行ってみて、ああ本当だ役立ったなと思った方がいらしたら、ぜひ、どの辺が面白かったのか教えてくださると、私も勉強になり、助かります。ぜひ一度、お運びください。2017年9月末までみたいです。