2017年12月29日 (金)
加島さんから『オリンピック・デザイン・マーケティング』をお送りいただきました。ありがとうございます。あとがきに名前まで書いていただきましたが、酒井泰斗さんプロデュースの史料データセッションに参加して、そこで何度かご一緒させていただきましたものの、そんなに貢献してないので、恐縮しております。今回の本は数年前に話題になった東京オリンピックのエンブレム問題を一つの軸にオリンピックを読み解いていくというものです。通常、歴史研究には時間がかかるといわれますが、加島さんはこの短期間で、これだけの成果を出してしまいました。驚嘆の一語です。
この本について紹介してもいいんですが、せっかくなので、もう少し掘り下げてみたいと思います。まず、そもそもなんでこんなことが可能だったのかを知るために、加島さんの博論本である『<広告制作者>の歴史社会学』を訪ねました。この本は簡単に言えば、<広告制作>にかかわる職業の分業の歴史を描いた本です。と、あえてここでは言い切ってしまいましょう。加島さんの主査が北田暁大先生であったこと、加島さん自身、「メディア」ということを意識されていますが、私の印象だと、割とクラシカルな分業問題を扱われていると思います。
私の専門に近いところでは、社会事業史研究というものがあります。そのパイオニアに吉田久一先生がいるわけですが、吉田先生は用語がどの時代に使われたのかに厳密で、「社会事業」という言葉が出てくるのは大正期です。ところが、では古代から連綿と続く「社会事業」という言葉は使われていなかったけれども、しかし行われていた営みを何と呼ぶのか、という問題に対して、便宜上、「社会事業」という言葉を使うとされました。この用語にこだわる手法をある意味では発展的に継承したのが、私の研究仲間でもある野口友紀子さんだと思っています。野口さんは「社会事業」の用法を訪ねて歩き、その領域が伸縮することに注目し、それこそが社会事業の特質だと切り返しました。
加島さんの「広告制作者」の歴史も、実はそれに似ていて、似て非なる概念を時代ごとに並べて、それがどのように展開していったのかを丁寧に後付けしてるわけです。ただ、文章にすると一行ですけど、これ、ものすごく膨大な作業です。私は肯定的な意味で言いますが、非常に辞書的な作業でもあるわけで、パッと思いつくのはOEDとかですかね。ただ、OEDは基本、テクスト情報ですけれども、加島さんの対象は図、デザインや場合によっては三次元の情報も入ってきますから、もっと大変なわけです。
ただ、大きなストーリーは、分業という問題を考えたことのある人間からすると、非常にオーソドックスなものだと思います。加島さんは「職業」という言葉で表現していますが、最初は独立した職業でなく、たとえば堺利彦の売文社なんかを取り上げて、広告制作「も」やっていたが、あくまで文章の代行業者だったことを強調しています。これが徐々に専業化してくる。そして、職業としての独立=専業化→専門分化というルートをたどるわけです。いずれにせよ、「広告制作」にかかわる様々な職種を広範に押さえているというのが加島さんの強みになってくるわけです。
加島さんが先行研究として掲げながらそれとは別の途を目指すと宣言している広告史、デザイン史というのは、経営史や経済史で言えば、技術史のようなものであり、経済史・経営史そのものではないけれども、技術がないと成り立たないところがあります。日本の経営史でそのことを最初に意識したのは脇村義太郎先生だと思います(そもそも日本の経営史が脇村先生から始まるわけですが)。なんで、そんなことを書くかというと、加島さんの仕事は、経済史・経営史としても非常に重要だと思うからです。まあ、いろいろ、分野を書いているのは、そういう分野の人にもぜひ読んで欲しいということです。
さて、そこで『オリンピック・デザイン・マーケティング』本体なのですが、私の見るところ、大きく三つの特長があるように思います。
第一に、前著との関係で言うと、専門職という見立て。デザイナーと広告代理店(電通)の立ち位置の違いは面白いです。それから、社会学のなかではそれこそ1970年代(ひょっとしたら60年代くらいかも)からイリイチ的な専門職批判以来の「専門性と大衆性」古典的な命題とも関連しています。加島さんはエンブレムの選定というきわめて技術的なレベルが高いと書けないテーマを扱いながら、実はクラシカルな問題を扱っています。まさに神は細部に宿り給うです。ちなみに、分業はデュルケームがそうですが、二冊とも、議論は細部にわたりますが、わりと大きな古典的なテーマを扱っているのはさすがですね。
第二に、資本主義(あえて古い言葉を使って恐縮ですが)という視点からの広告代理店を描いていること。これが本書の前半部分で、事実上、加島さんのこの力業はオリンピックはいかにして商業化したか、ということを描いています。この部分だけでも、経済史・経営史研究者、それから政策研究者も読む必要があると思います。まあ、電通はもともと親方日の丸のもとに作られた会社ですが、1970年代以降の政策へのコミットの仕方はひょっとしたら、このオリンピックが関連しているのかななどと想像してしまいたくなります。それくらい面白い。ただ、後半のエンブレムの選定とテーマが二層的になっちゃうなと考えていましたが、広告代理店が何かを理解しないと、先に進めないんですね。そういう意味では立派な布石になっています。ただ、ここだけ独立して読んでも十分に価値があると思いますね。
第三に、とにかく決定プロセスが丁寧に描かれています。しかも、補足説明もばっちりです(あ、ちなみに、重要な点は太字になっていて、かなり強烈に含意を説明しているのは、その見解についてのリスクを負っているという意味において、きわめて良心的だと思います)。これは、我々労使関係に縁の深い研究者は大好物ですが、おそらく実証を重んじるタイプの政治史、経済史、経営史研究の人たちにとっても読みごたえがあるのではないかと思います。
私は常日頃、日本の研究を英語で国際的に発信すべきだという意見には警戒的なのですが、『オリンピック・デザイン・マーケティング』は英語にして、世界中の人に読んで欲しいですね。加島さんが明らかにした我らが日本が世界に誇れるかどうかはきわめて微妙ですが、加島さんの研究は胸を張って世界に誇れるものだと思います。
この本について紹介してもいいんですが、せっかくなので、もう少し掘り下げてみたいと思います。まず、そもそもなんでこんなことが可能だったのかを知るために、加島さんの博論本である『<広告制作者>の歴史社会学』を訪ねました。この本は簡単に言えば、<広告制作>にかかわる職業の分業の歴史を描いた本です。と、あえてここでは言い切ってしまいましょう。加島さんの主査が北田暁大先生であったこと、加島さん自身、「メディア」ということを意識されていますが、私の印象だと、割とクラシカルな分業問題を扱われていると思います。
私の専門に近いところでは、社会事業史研究というものがあります。そのパイオニアに吉田久一先生がいるわけですが、吉田先生は用語がどの時代に使われたのかに厳密で、「社会事業」という言葉が出てくるのは大正期です。ところが、では古代から連綿と続く「社会事業」という言葉は使われていなかったけれども、しかし行われていた営みを何と呼ぶのか、という問題に対して、便宜上、「社会事業」という言葉を使うとされました。この用語にこだわる手法をある意味では発展的に継承したのが、私の研究仲間でもある野口友紀子さんだと思っています。野口さんは「社会事業」の用法を訪ねて歩き、その領域が伸縮することに注目し、それこそが社会事業の特質だと切り返しました。
加島さんの「広告制作者」の歴史も、実はそれに似ていて、似て非なる概念を時代ごとに並べて、それがどのように展開していったのかを丁寧に後付けしてるわけです。ただ、文章にすると一行ですけど、これ、ものすごく膨大な作業です。私は肯定的な意味で言いますが、非常に辞書的な作業でもあるわけで、パッと思いつくのはOEDとかですかね。ただ、OEDは基本、テクスト情報ですけれども、加島さんの対象は図、デザインや場合によっては三次元の情報も入ってきますから、もっと大変なわけです。
ただ、大きなストーリーは、分業という問題を考えたことのある人間からすると、非常にオーソドックスなものだと思います。加島さんは「職業」という言葉で表現していますが、最初は独立した職業でなく、たとえば堺利彦の売文社なんかを取り上げて、広告制作「も」やっていたが、あくまで文章の代行業者だったことを強調しています。これが徐々に専業化してくる。そして、職業としての独立=専業化→専門分化というルートをたどるわけです。いずれにせよ、「広告制作」にかかわる様々な職種を広範に押さえているというのが加島さんの強みになってくるわけです。
加島さんが先行研究として掲げながらそれとは別の途を目指すと宣言している広告史、デザイン史というのは、経営史や経済史で言えば、技術史のようなものであり、経済史・経営史そのものではないけれども、技術がないと成り立たないところがあります。日本の経営史でそのことを最初に意識したのは脇村義太郎先生だと思います(そもそも日本の経営史が脇村先生から始まるわけですが)。なんで、そんなことを書くかというと、加島さんの仕事は、経済史・経営史としても非常に重要だと思うからです。まあ、いろいろ、分野を書いているのは、そういう分野の人にもぜひ読んで欲しいということです。
さて、そこで『オリンピック・デザイン・マーケティング』本体なのですが、私の見るところ、大きく三つの特長があるように思います。
第一に、前著との関係で言うと、専門職という見立て。デザイナーと広告代理店(電通)の立ち位置の違いは面白いです。それから、社会学のなかではそれこそ1970年代(ひょっとしたら60年代くらいかも)からイリイチ的な専門職批判以来の「専門性と大衆性」古典的な命題とも関連しています。加島さんはエンブレムの選定というきわめて技術的なレベルが高いと書けないテーマを扱いながら、実はクラシカルな問題を扱っています。まさに神は細部に宿り給うです。ちなみに、分業はデュルケームがそうですが、二冊とも、議論は細部にわたりますが、わりと大きな古典的なテーマを扱っているのはさすがですね。
第二に、資本主義(あえて古い言葉を使って恐縮ですが)という視点からの広告代理店を描いていること。これが本書の前半部分で、事実上、加島さんのこの力業はオリンピックはいかにして商業化したか、ということを描いています。この部分だけでも、経済史・経営史研究者、それから政策研究者も読む必要があると思います。まあ、電通はもともと親方日の丸のもとに作られた会社ですが、1970年代以降の政策へのコミットの仕方はひょっとしたら、このオリンピックが関連しているのかななどと想像してしまいたくなります。それくらい面白い。ただ、後半のエンブレムの選定とテーマが二層的になっちゃうなと考えていましたが、広告代理店が何かを理解しないと、先に進めないんですね。そういう意味では立派な布石になっています。ただ、ここだけ独立して読んでも十分に価値があると思いますね。
第三に、とにかく決定プロセスが丁寧に描かれています。しかも、補足説明もばっちりです(あ、ちなみに、重要な点は太字になっていて、かなり強烈に含意を説明しているのは、その見解についてのリスクを負っているという意味において、きわめて良心的だと思います)。これは、我々労使関係に縁の深い研究者は大好物ですが、おそらく実証を重んじるタイプの政治史、経済史、経営史研究の人たちにとっても読みごたえがあるのではないかと思います。
私は常日頃、日本の研究を英語で国際的に発信すべきだという意見には警戒的なのですが、『オリンピック・デザイン・マーケティング』は英語にして、世界中の人に読んで欲しいですね。加島さんが明らかにした我らが日本が世界に誇れるかどうかはきわめて微妙ですが、加島さんの研究は胸を張って世界に誇れるものだと思います。
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