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木村正身先生といっても、多くの人は知らないだろう。昔の社会政策学者で、1975年に「労働条件と福祉条件」という論文を書かれている。昔だったら、忘れ去られるだろうけれども、今はレポジトリが発達したので、この論文も居ながらにして、読むことが出来る。この論文は「福祉」を定義したものとして興味深い。その最後の部分を引用しよう。

実際には.その諸生活主体のニードの充足または福祉は,資本主義のもとでは,基本的には反福祉状態(diswelfares)ないしマイナスのサービス(disservices)からの回復,ないしそれらに対する損害補償への社会的権利の行使として,むしろネガティグなかたちでのみ,具体的に検証されるものであるということができよう。既述のように,資本主義は,それ自体,「疎外された労働」から「貧困化法則」までの諸規定のもとに,いわば労働者階級およびプチ・ブルジョアジーの原生的反福祉状態を設定する。それを背景として,さらに資本主義の発展に伴う反福祉的諸条件の累積的展開があり,資本主義の最高段階で咋は,反福祉状態一般も最も深刻になる。そのなかで,さらにハンディキャップをもつ人々は,一層大きな被害を受ける。福祉活動は,ニード充足を社会的権利とみつつ,こうした状況(権利侵害)に対するミニマムな回復・補償を要求・実現する活動だといえよう。そして,この統一的見地から,福祉問題は,公害や交通事故・犯罪等の被害の補償問題をも,包擁するものとして再認識されるべきであり,また,このとによってその総体的意味を保持しうるであろう。


1970年代と言えば、高度成長期の末から公害問題という新しい問題が注目されるようになった時期であり(もちろん、公害自体は昔からあるが、この時期に特に社会問題化されたということ)、今までのマルクス経済学的な資本主義論の延長線上に、このような現象を包括的に捉えようとする問題意識をこの論文からは感じることが出来るだろう。この定義は、問題を考えるに際して、非常に重要な定義である。それはどのような意味においてだろうか。

稲垣良典先生が『現代カトリシズムの思想』(岩波新書で最近復刊された)で、人間が社会を形成するのは足りないものを補い合うからではなく、自己の充足、豊かさ、完全性ゆえに共同体を形成すると捉え、そのあふれ出る豊かさを神愛=カリタスと呼ぶということを説明している。人権とキリスト教の関係も一筋縄ではいかないが、大雑把に言うと、私はこうした考え方は西洋の人権思想には流れていると考えている。少なくとも、カトリックの公共要理(カテキズム)のなかでは、人権の考え方が説明されている。

ところが、日本のキリスト教は日本国内では彼ら自身が多くは新興のマイノリティであり(もちろん、近代以前にも隠れキリシタンが脈々といたことは知っているが)、しかもマイノリティの反福祉状態の回復に従事してきたといってよい。その代表は賀川豊彦であろう。このような事情が、日本のキリスト教理解にも大きな影を落としてきたと私は思う。たぶん、こうした偏りは、いずれ赤江達也さんなんかが書き換えてくれると期待している。ただ、それにしても、このような偏りが生まれた背景、歴史的事実自体は否定すべくもない。

日本に人権思想が入って来たのはもちろん戦前だが、多くの人は戦後憲法とともに人権概念を受容していった。朝日訴訟に代表されるように、人権の考え方は、木村先生の言うところの反福祉状態からの回復という要求と密接に結びついていた。反福祉状態は運動に結びつきやすかった。要求にしやすいからである。ところが、その先に運動ないし実践的には落とし穴が待っている、と私は思う。それは、その問題が個別具体的な一回限りのものではなく、より普遍的な問題であると認識し(それ自体は間違っていない)、運動自体もそのような広い問題に発展させようとしてしまうことである。発展的解消はその本拠になっていた運動の基盤さえも解消させてしまうことがある、と私は思う。比喩的に言えば、対象との距離が変わるはずなのに、同じレンズで同じピントの合わせ方をしようとすれば、それは当然、ピントが合わなくなるだろう。うねりというか、流れを作る運動には、小さくてもその起点が必要で、それがあらゆる場所に遍在してしまえば、かえって見えにくくなってしまう。理屈で言えば、どこからでも起こせればいいのだが、そんなことは簡単には出来ない。

運動の拠点としての反福祉状態にはジレンマがある。それは反福祉状態が解消されれば、その運動が弱くなるということがある。ところが、反福祉状態を作り出しているいろいろなものはそう簡単には解消されない。いったん、運動が弱くなると、たちまちその反福祉状態に対抗するのが難しくなる。それはかつてその反福祉状態に対抗し得たときよりも、運動的、組織的には遥かに困難な状況にならざるを得ないのではないだろうか。これは個人個人の責任ではなく、構造的なジレンマなのだろうと思う。では、その代わりを思想、たとえばカリタスから、組み上げていくことが出来るのかと問われれば、それもまた難しい。理論的にはケイパビリティが限界ではないかと思うが、これを運動の基盤にするには、そもそももっとキャッチ―な言葉に変えないと、うまくいかないだろう。
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本田一成さんから『オルグ!オルグ!オルグ!』新評論、2018年をいただきました。いつも、ありがとうございます。3月にいただいていたのですが、私が生活の基盤を大阪に移したことなどもあり、いつもは一日あれば、大体、書けるのに、こんなに遅くなってしまいました。この間、何度か本田さんに早く紹介せいと催促されてしまいました(いや、実際はもっと丁寧な表現ですが)。

この本はUAゼンセンの研修資料をもとにされていて、その限りにおいて研究というよりは、教材として書かれたものだと思います。いや、それは別に研究として、この本を見ることが出来ないということではなく、次世代の運動家を育てようという本田さんの意思が基盤にあって、それがロマンを語るというところをさらっと語ることを可能にしています。一般に、研究は素材を生のままで持ってくることはせずに調理するわけですが、素材がどんなに魅力的でも、調理に向かないために、泣く泣く取り扱わないことはあります。本当に大事なことは書かれない、というのは私が尊敬する先生お二人がよくおっしゃっていました。このオルグのロマンというのもそういうものです。

オルグのロマンというのは、言ってみれば、オルグの精神とか魂とか思いとかいろんな言い換えが出来ると思います。言葉は何でもいいんですが、これが分かるか分からないのかで運動家になれるかどうかの分水嶺である、と言っていいと思います。余談ですが、以前、組合の方に労使関係を教えて学生を育ててくださいということを頼まれたことが何度かあったのですが、そもそもそういう感覚は分かる人には分かるし、分からない人には分からないと思っていて、それは教育によって作るというより、そういう資質の人に出会うものだと思っているところがあって、あまり乗り気ではないというのが正直なところでした。そういう点では、教育や研修に期待していません。しかし、本田さんはそうではない。

冒頭でオーラルヒストリーを批判されていますが、私から見たらどうでもいい、つまらないことです。それは調査屋としての本田さんのアイデンティティかもしれませんが、オーラルヒストリーであっても、たとえば岩永理恵さんや田中聡一郎さんたちがやった厚生省官僚のオーラルのようにトピック重視の設計も可能ですし、オーラルと呼ばれる前から、古くからいろんなものがあったわけで、それをひとまとめにすることなどできません。それこそフィールドノートのつけ方だって人それぞれですから。いろんな分野と学際的につきあってきた私の経験では、どの分野もすごい人とダメな人がいるというだけだと思います。特定の研究が念頭にあるのに、それを名指しで批判しないのはよくない。こんな中途半端に書くくらいなら、名指しで批判すればよかったと思います。

さて、本体の話に戻りましょう。この本が何を考察しているのか、ということですが、徹頭徹尾、「組織」です。もちろん、オルグは組織化の意味なので、組織について考えるのは当たり前に思われるかもしれませんが、本田さんの場合、産別、企業別組合のロジックを丁寧により分けて記述し、さらにはその背後にある業界動向、経営者の理念などもさらっと解説しています。そういう意味ではいつもながらに産業史、経営史という点から読んでも面白い。ただ、そこからもう一歩踏み込んで、人に入り込んでいる点がこの本の特徴です。そして、その特徴の由来はやはり対象が労働組合であることから来ます。一般に、組織論は軍隊とか企業とかからスタートしていて、人が人を通じて組織を大きくすること自体を目的としていません。これに対して、組合は組織化自体がしばしば組織目標になります。それは他の組織にない特徴です。

しかし、そうした視点に支えられた個別の分析はそれ自体が優れた成果であるとはいえ、それさえも私にとってはどうでもいいことに思えるのです。なぜ、すぐれたオルグの皆さんは本田さんに語ったのか。それは本田さんが調査屋だったからでしょうか。おそらく、そうではないでしょう。私は本田さんが語るに足る人間であると認められたからだと思っています。

労働運動家というのは労働組合に就職すればなれるようなものではありません。もちろん、その組織に属せば、フォーマルにもインフォーマルにも先輩から影響を受ける機会は間違いなく多くなるでしょう。飲み会で何度も聞いた話にそのエッセンスが込められているかもしれません。しかし、だからといってそこに何年、何十年勤続して、その話を聞いたことがあったからといって、本物の運動家になるのかと問われれば、保証の限りではない。本田さんはゼンセンの人間ではありません。一人の高い研究能力を持った研究者です。しかし、それ以上にオルグのロマンを語り継ぐものです。

昨年、私のお世話になった運動家が亡くなって、その人の書いた論集をまとめるので、緒論を書いてくれという依頼をいただきました。その最後に「労働運動に命をかけた一生は男子の本懐である。その精神が後進の労働運動家に引き継がれることをただ祈りたい」と書きました。追悼の言葉よりも、それこそが本当に伝えたいことだったろうと思って。そうして、偲ぶ会が企画され、その論集もそこで配られました。その会で、皆さんの思い出話を聞くうちに、実際に思いが引き継がれていったその姿を見ることが出来ました。

本田さんは歴史が大事だといいます。そういう言葉を組合の方からうかがったこともあります。でも、私はその当時も今も、歴史が大事だとは思っていません。歴史は現在の理解を深める素材に過ぎません。本当に大事なことは、やはり本田さんの言葉で言えば「オルグのロマン」に通じる何かが伝わるかどうかです。別に組合に限らなくてもいいのです。労働運動の精神と呼ぶべきものが本当に一人でも多くの人に伝わるといいなあと思います。それはきっと分野を超えて他の社会運動にも資するところがあるはずです。