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Tak.さんの新著『アウトライン・プロセッシングLIFE』が出版されたので、早速読んでみた。実はあまり期待しないで読んだのだが、期待に反して面白かった。なぜ期待していなかったのかというと、アウトライナーは私にとってはたしかに福音だったけれども、新しいものを学び、それを自分なりのものにカスタマイズするためのコストを払って得るベネフィットは逓減していくので、自分の今までの仕事のやり方とアウトライナーの折り合いをつけていたからだ。しかし、今回はそうしたライフハック的な意味とは別に、私が専門的に学んできた労働分野の研究にとって、かなりヒントになり得る本ではないか、と思ったので、あえてこのブログで紹介したい。

この本は端的に言えば、タスクということを徹底的に考えている本である。そもそも、タスクというのは何かといえば、切り分けられない最小単位の仕事であった。こういう特別な概念になったのは、テイラーや同時代の能率技師たち(ギルブレス夫妻など)の研鑽のせいで、彼らはあるタスクの最良の方法を発見して、その習得方法を学べば、誰にでもその方法を実践できると考えた。そう有名なストップウォッチを使った時間動作研究がそれである。テイラーが自らの方法に科学的管理法と名付けたように、これはある地域のある時代の科学観が色濃く反映されている。同時代人のフレックスナーは医者のプロフェッションに、誰にでも伝達できるプログラムがあること(秘教的でない)を掲げており、その発想はほぼ同じであると言えるだろう。

時間動作研究はその後、職務分析へと展開した。その歴史は私もまだよく分からないところが多いので、そのうち研究したいと思っているが、一般にはブルーカラーの仕事についての研究として日本では取り上げられてきた。私が教わってきたのは、アメリカのジョブという概念はタスクを積み上げられて構成される概念であるということであった。これはある時期のブルーカラーについては正しいが、アメリカではホワイトカラーの職務分析は少なくとも私が1960年代の動作研究についての文献(元NKKの奥田健二先生が60年代にアメリに留学した時に買って来た文献で、その甥の鈴木玲先生から私が譲り受けたもので、引っ越しの段ボールのどこかに入っていて、名前は分からない)には、ブルーカラー的な積み上げ型の職務分析とは違う方向を模索していたようだ。実際、ミルコッビチのコンペンセーションになると、下からの積み上げではない、現場や上からの職務の定め方というのが書かれている。この数十年の間に何が起こったかは丁寧な文献サーベイが必要である。

日本の場合、大手製造業の現場レベルでは積み上げ型の職務分析もやっていたが、分析と実際の仕事は別で、おそらくもっと高度な判断を含めてやってきた。それを学問的に迫ったのが小池和男先生の1980年代までの仕事である。ところが、この後、かつての労働問題研究ではホワイトカラー研究に向かっていったが、個人的にはあまり深まっているとも思っていない。完全にスタックしていると思う。個人的には、高橋弘幸さんの三井物産のホワイトカラー史研究は新しい可能性を持っていたと思っているが、残念ながら継承されることはないだろうと思う。というのも、そもそも内容が難しすぎ、これをちゃんと議論しようという学者グループがいないということである。私は何年も高橋さんの議論に付き合ってきて、その作業途中の話も聞いてきて、文献も何度も読んだが、なおよく分かっていないということだけは分かっていて、まだ半分くらいかなと思っている。その途中報告はこの書評である。

こういう方向からすると、まったく意外なところから正面突破したのが若き日のミンツバーグの研究、そう有名な「マネジャーの仕事」である。これは取締役研究なのだが、彼は一週間張り付いて、時間動作研究を敢行した。簡単に約めていえば、取締役の仕事は複雑に見えるけれども、意外とパターン化できるということだ。たとえば、誰と会うというのは、一様に法則化できないけれども、誰かと会う、電話を掛けるなどのレベルで抽象化すれば、意外とパターン化しているということである。この話を取締役経験のある人と議論したときに、その人がおっしゃっていたのは、そう重役になれば意外とそうなんだよ、難しいのはその手前まででこれはパターン化できない、ということだった。そう、ここで話はホワイトカラーに戻って来る。

このTak.さんの新刊である。これはまさにタスクがどう変化していくのか、ということをご自分の事例で語っている本である。Tak.さん自身が、実際の仕事とアウトライナーについての洞察(研究)とで試行錯誤のなかで作られたもので、もちろん、その変化を全部つぶさに記録しているわけではないので、あくまで再現であるが、それでもかなりタスクのあり方がどう変化しているのか、ということを明らかにしており、その点でとても興味深かった。この本から、いろいろと考えることは出来るのではないかと思う。その意味で、非常にリソースフルな本である。

後半の人生論は、私には不要だが、それはそれで面白い。個人的な経験で言えば、いかに生きるかというのは20代くらいには悩んだけれども、その後も個別具体的な問題にどう対応するかはよく迷うものの、原理原則的なところでまったく悩んでいないので、自分事としてはあまり共感できなかった。ただ、客観的な素材としては興味深い。中澤二朗さんの『働く、なぜ?』は仕事論・人生論という点では同じだが、ビジネスマン人生も終わり近くになって、後進世代に伝えたいことを書かれている。実際、自分の経験よりも先輩の話も多い(新日鉄だから偉大な先輩に事欠かないということも大いに関係しているが)。Tak.さんも中澤さんも少し求道的なところがあって、それゆえの人生論だが、これ昔の青年気質だよなあと思う(今の若者にはないと思う)。でも、Tak.さんは注で「恥ずかしいので全部読まなくていいです」とか書いてあって、ちょっとカワイイ。お陰で飛ばし読みしてたけど、戻って全部読んじゃいましたよ(笑)。

ちなみに、このエントリはまったくアウトライナーを使ってません。

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RADWIMPSのHINOMARUが話題になって、ツイッター上でも賛否両論ですね。私は思想的な嫌悪感というより、中途半端な漢文調が気持ち悪かったです。漢文もある種の語学のようなものなので、私も近年、全然触れる機会がないので、偉そうなことも言えないのですが、それでももうちょっと硬いんですよね。それならそれで通してほしかった。まあ、そんなことはどうでもいいのですが、私が気になったのは左でも右でもないの話です。ねずみ王様のこのツイートです。

私はファシズム論争よろしく戦前の日本をファシズムとして論じる議論には懐疑的ですが、日本主義が1930年代半ばから影響力を増して行き、それがやがて日中戦争から太平洋戦争の際の思想的な中心になっていったこと否定しません。で、そのいわゆる右翼なんですが、右翼というのは北一輝とか、そういう人たちをイメージしやすいですけど、戦前、右翼というのは左翼と対になる言葉でした。そんなの当たり前じゃないかと言われるかもしれないけれども、意外とそうではないかもしれません。どこに焦点を当てるかによって、見える景色が変わって来ます。

戦前の左翼というのは、今と違って分かりやすいんですよ。大雑把に言えば、共産党関係者ないしそれにシンパシーを感じる人たちです。これに対して、敵対する層がどこであったのか。まずは労働組合、総同盟主流派、戦後で言えば社会党右派ないし民社党系、あるいは河合栄治郎周辺の社会思想社系なんです。戦前の文書を読んでいくと、右翼組合と呼ばれています。戦時中に西尾末廣のスターリンのごとく、ムッソリーニの如くという有名な失言がありますが、後に西尾は日本で共産党ともっとも苛烈に戦ってきたのは自分たちであるという自負があったので、まさか誤解されるとは思わなかったと回想しています。連合になってから、右左というのは分かりにくくなってしまいましたけどね。

日本の場合、右でも左でもないというのは、この二者ではない、というところから始まった話じゃないかと思うんですよ。いわゆる中間派ですね。これは石川島造船の自彊組合の具体的人物で言うと、神島という人が始めたんですよ。それを協調会の町田とか、吉田とかがバックアップした。この後ろには安岡正篤なんかも控えている。神島自身は1920年代に亡くなってしまいますが、これが後の産報運動の一つの流れになる。ただ、1930年前後だとまだまだ戦争と関係ないですけどね。

ちなみに、神島はもともとは国粋主義的というより、インターナショナルな世界に憧れていたんですが、なんかのヨーロッパの労働組合の大会に希望を抱いて出席したら、見事に人種差別にあって方向転換するわけです。きれいごとを言ったって、実際は全然違うじゃないかというのが彼の実感なんですね。だから、西洋ではなく、日本に戻らざるを得なかったのです。そういう立場ですから、総同盟、彼らはその最初の名前が友愛会(Friendly Society)といったことからも分かるように、もとは英国流の労働組合主義ですかね(これは総同盟に近かった村嶋歸之が書いています)、そういうものとも相容れないわけです。というような経緯ですから、ヨーロッパとは全然事情が違うわけです。

もうちょっと時間が出来たら、この辺りも少し思想的に整理したいですね。ただ、論文はおろか、ブログエントリにするのも面倒なので、多分、ツイッターでつぶやいて、終わりですが。