私がコントを勉強している途中、日本社会学会の例会があった。勿論、例会は何度もあったが、覚えているのが一回だけある。会場は、何時ものように、東大の「三四郎の池」の上にある山上会議所(山上御殿)で、その日の報告者は、遠藤隆吉先生であった。先生は、明治七年の生れで、戸田先生の大先輩に当っている。先生が加藤光治先生と知っておられたので、関東大震災の直後、加藤先生は、私に社会学をお勧めになったのである。しかし、その日の遠藤先生の研究報告は、どちらかと言うと、雑談に近いもので、先生御自身、まだ五十五歳ぐらいであったのに、現役というお気持ちを全く失っておられたようであった。雑談に近い「研究報告」が終って、本当の雑談が始まってから、先生は、何をお考えになったのか、誰に言うともなく、「最近は評判が悪いけれども、昔の綜合社会学という奴、あれはあれで便利だったな」と呟いた。その途端に、居合せた会員は、ドッと笑った。その笑いには、世捨人のようなポーズの先生への憐れみが含まれていた。先生も、仕方なさそうに、みんなの笑いに加わって、やがて、研究会は散会になった。
 念のために言えば、綜合社会学というのは、コントに始まる十九世紀風の社会学のことで、経済、政治、宗教、文化など一切の社会現象の包括的研究を目指し、同時に、壮大な歴史哲学的ヴィジョンを持っている。しかし、経済、政治、宗教、文化などの専門的研究が進歩し、それぞれ独立の科学になるにしたがって、そういう包括的研究の成立が困難になって来る。そこから、前に触れたジンメルのように、社会現象に「一本の新しい線」を引くことによって、つまり、或る新しい見地から抽象を加えることによって、社会学固有の対象を作り出そうという試みが始まった。その代表的なものが、形式社会学と称せられるものである。それが初めて生れたのは、前世紀末のドイツであったが、それが勢よく復活したのは、ヴァイマル時代のドイツであった。あの研究会の以前から、ドイツの形式社会学が日本に輸入されていて、それが多くの社会学者たちの常識になっていた。最近流行の表現を用いれば、それがT・S・クーンの謂わゆる「パラダイム」に似たものになっていた。職業社会学者の間では、綜合社会学は嘲笑されねばならぬものであり、形式社会学だけが方法論的根拠を持つものであった。しかし、研究会の出席者の顔触れを見れば、失礼ながら、綜合社会学の代表的学説をキチンと勉強した上で、その命数が尽きたことを知っている人はいなかったし、また、形式社会学の方法論を十分に研究した上で、それを支持している人もいなかった。ただ、一方を嘲笑し、他方を支持するという作法を守っていたのである。それを守ることが、職業的社会学者であるための条件なのであった。もし誰かが、「どうして、綜合社会学は便利だとおっしゃるのですか」と本気で質問したら、そして、遠藤先生が本気でお答えになったら、私たちは、誰も責任を取らないで済む作法の世界から一歩踏み出すことが出来たのであろう。本当は、綜合社会学の最初の体系を作ったコントを勉強している私こそ、真先に質問する義務があったのであろう。しかし、その私も、黙って、小さく笑っていた。
 昭和四十六年、私は日本社会学会を退会した。高等学校入学と同時に入会したのであるから、四十六年間、会員であったことになる。入会した頃は、会員が非常に少い、小さな学会であった。日本中を見渡しても、社会学の講義は極めて少かった。退会する頃の会員数は、約千二百名。どの大学にも、社会学の講義がある。敗戦を境として、社会学は大きな発展を遂げたのである。社会学と限らず、或る学問が発展するという場合、通常、研究者の数が増加すること、彼らが研究や授業によって生計が立てられること、学会が設立され、機関誌の部数が殖えること、著書や論文の生産が増加すること、読者や学生という消費者が増加すること・・・・・・が含まれている。それによって、現実の社会とは別に、その学問の生産と消費とが行われる独立の封鎖的な領域が出来上り、その領域の内部にだけ通用する常識―作法、公理―が生れる。千二百名の会員のうち、千名が社会学を講じているとし、会員一名が学生百名を相手にしているとすると、学生は十万名になる。彼らの間だけで、生産と消費とが立派に成り立つであろう。学問が別世界のものになる。これに反して、その学問がまだあまり発展しない間は、同じ研究会にしても、少数の研究者のほかに、多くの実務家(官僚、企業家、運動家・・・・・・)が加わって、発言の権利を持っていたし、また、機関誌が発刊される前は、論文は一般雑誌に発表されて、広く外部の人々の眼に触れ、その人々によってテストされるのが普通であった。要するに、方言のような常識―作法、公理―の成立が困難であった。学問によって一概に言うことは出来ないけれども、一つの学問が、前に見たような意味で発展を遂げると、とかく、現実の社会から隔離された封鎖的な世界が生れるようになり、ゴツゴツした社会の現実によってテストされることもなく、また、社会の福祉を約束することもなくなる。それを避けるのには、それぞれの作法を持つ封鎖的諸領域の間の接触―流行のinterdisciplinary―ということより、現実の問題の解決を職業とする実務家との真面目な接触の方が大切であるように思われる。

清水幾太郎『わが人生の断片 上』文藝春秋、1975年、275-278頁

 清水幾太郎先生はかつての社会学の大家である。清水先生には二つの自伝がある。若いときに書いた『私の読書と人生』と晩年に書かれた『わが人生の断片』だ。私は清水幾太郎が好きで、いくつかの本を集めてきた。とにかく、本物の江戸っ子で文章が美しい。その美しさゆえに、いつも文章に余白があった。その余白はエッセイの中では無類の魅力を放っているけれども、研究書のときには、ある種の厳密性を犠牲にしているという意味で危険な部分もあった。それは引用文中に出てくるように、清水先生がコントを勉強され、綜合社会学に思い入れを持たれていたこととも密接に関係しているように思われる(清水先生の最後の本は岩波新書のコントを書いたものだが、残念なことに私は未読である)。というような事情で、何度も読んで、とても大切なことが書かれているように思うのだが、何をどうまとめていいのか、よく分からない。それで全部引用した(ちなみに、この続きにも「作法」に関する効果的なエピソードがある)。
 裏話的なことに注目するならば、清水幾太郎は進歩的文化人から華麗に転向し、保守派の論客となった。ただし、清水は転向を宣言し、その上で『倫理学ノート』を書いた。しかし、一部には、たとえば福田恒存は、彼のその態度を許さなかったといわれる(どこかで読んだ記憶があるのは、清水と和解するのは読者を裏切ることになるということだったらしい。彼らは元々は友人同士であった)。同時代的に見ると、言っていることの首尾一貫性は大事かもしれないけれども、40年以上経つと、そんなことはつまらない問題に見える。この引用文の後のエピソードは、史学会で羽仁五郎が蓑田胸喜の質問に答えるものだが、正にこの二人の立場はまったく正反対であった。イデオロギーが異なるが故に、真摯な態度で質問した蓑田に対する羽仁の要領の得ない答え、周囲の反応をビビッドに描いている。そういう二人を舞台に上げたからこそというべきか、清水先生はその根底にある、立場を超えて学者の世界のあり方を批判的に観察している。イデオロギーより大事なことを語っているのである。
 今の社会学を研究している人は、清水幾太郎の本なんかはもう、読まないのかな。
私は最後の本が『オーギュスト・コント』だと思ったんですが、もっといろいろ書いていたんですね。勘違いでした。
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