ちょっとここ数日雑用で忙しかったのでアウト・オブ・デートですが、稲葉さんと濱口さんのやりとりには、私も少し絡んでいるような気もするので、ちょっとコメントします。

関連エントリは、
稲葉さんの2010年1月19日のエントリ
それを紹介する2010年1月20日の濱口さんのコメント

稲葉さんが適切に解説しているのは、テキストとして本田由紀さんとその論敵?小玉さんの関係を読み取った場合です。私は当初、小玉さんという具体名は覚えていませんでしたし、正直に言うと、分科会その2を書いたときは本田さんの本をちゃんと読み返しもしませんでした。読んでいて気づく人がいるかどうか分かりませんが、私はいろんな意味でフーコーが嫌いです。一番嫌いな理由は、必ずしもフーコー本人が悪いわけではないですが、フーコーを分かっていないという自覚を持っているにもかかわらず、フーコーは大事だという人たちにうんざりしてるからです。だから、フーコー云々を持ち出したのは、きっとこんなことをいう人たちはフーコーが好きに違いない、という独断と偏見だったわけです。でも、結構、当ってたのかもしれませんね。

フーコー繋がりで本田さんの議論を考えると、たしかに、稲葉さんの指摘どおりかもしれません。が、実際には大した影響力もないと思っています。そのことを説明するためには審議会の構造を一応、観察しておく必要があります。

審議会には極端な主張が必要とされます。なぜなら、審議会は「審議した」というアリバイが重要なので、出来るだけ極端な主張が争われると理想的なのです。しかし、審議会をまとめる段になったら、いつまでも対立しているのでは困る。実際、文字コードを決める議論では、かつて漢字一文字の字体をめぐって1時間以上、議論しているという有名なエピソードがあります。それじゃ、まとまるものもまとまらない。かつて海軍の波多野貞夫は戦時期の中央賃金委員会で生活賃金(実際は定額給)の中心的人物でした。しかし、まとめる段になったら、適当なところでスッと引いてしまう。それは見事なもんです。完全に自分の立ち位置を知っている千両役者なのです。

哀しいかな、本田さんは本気で職業教育化が必要だと考えている節がある。でも、濱口さんは本田さんほどにはラディカルに職業教育化すべきだとは考えていないし(一々、考証しませんが)、本気にするわけもないでしょう。多分、自民・民主の無理解によって職業訓練が潰されそうになっている危機をどう打開するか、そのあたりがはるかに重要な喫緊の政策課題ではないでしょうか。それには大いに職業訓練、職業教育の重要性を宣伝してくれる人が必要です。やっぱり、人を説得するときにはなんだか分からないけれども「あなたがそこまで言うならば」という局面がやってきます。そう思ってもらうには、中途半端ではダメで、腰を据えて本気で言うことが重要です。こうした条件を考慮すると、身も蓋もないようですが、本田さんはキーパーソンなのです。田中先生は学術的レベルにおいて遥かに本田さんより上だと私は思いますが、内容よりも肩書きがものいう場面もありますし、田中先生は関係者ですからね。内容をとわず抵抗勢力で片付けられかねない。それに比べると、どういう経緯かは分かりませんが、トンチンカンにも(!?)まったく利害関係のない立場から、職業的レリバンスが大事!などと主張してくれる人は願ったり叶ったりな存在です。おまけに、従来の主張であった「職業的レリバンス」を簡単に「職業的意義」に切り替えるといった、こだわりのない軽やかさも持ち合わせているのだから、ありがたい限りです。現在、重要なことは職業教育、職業訓練に関連する事柄に世間の関心を集めることです。それをどうするかは次の課題です。

私は政策に携わっているわけではなくフリーの立場なので、こんなブログの片隅で何を言おうと別に影響力など何もないので、構わないのですが、実は気持ちとしては(私が考える)濱口さんの戦術にの非常に共感します。ここは私が稲葉さんと違う点ですね。じゃ、あんな感想、書くなよという話ですが、止むに止まれなかった。といっても、歴史家として許せなかったとか、そんな立派なことではありません。ここもある意味では真摯に自分の立場から批判されている稲葉さんとは違う点です。

高校の頃、担任の先生がイギリスに観光旅行をしたという話を得意げにしてくだったとき、ようやく「いろいろと厳しくて、信じられなかったんだが、ごみを捨てたら罰金が取られるところがある」という下りが来たところで、出席番号で私のすぐ後ろのヤツが、ガードポジションを完成させた後で、「バッキンガム宮殿!」と大声で叫びました。当然のことながら、じっと先生がオチを言うのを温かく見守っていたクラス中から彼は反省を求められました。曰く「ごめん。ずっと長かったから、我慢できなかった」。今回の私の止むに止まれないという気持ちはこの程度のものです。

実際、分科会で本田さんの主張のコアな部分は通ってません。本田さんにやや近いのが児美川先生。その児美川先生は座標軸で言えば、リベラル・アーツよりですね。最終的には、学士力にプラスα(この場合、このαは決定的に大事ですが)で専門教育の重要性が確認されています。これは北村先生のご主張であり、従来の大学のあり方の継承です。こちらがもうひとつの軸でしょう。ちょうど、真ん中にいらしたのが久本先生。矢野先生は北村先生のご主張を人的資本論の観点から援護されているとも見れるでしょう(JIL論文を読むと)。

以上のような文脈から考えると、稲葉さんが誠実に本田さんを位置づけたことは、政策という観点から見れば、はっきり言えば、実にバカバカしいということも出来ます(いつもながら律儀だなあと私は思いましたが)。だからこそ、濱口さんはわざわざ「これはいかなる意味でもペジョラティブなインプリケーションはありません」という断りを書いたのです。濱口さんの哲学に対する思い入れを知っている人にとっては不要な断りとも言えます。

私自身はフーコーをそんなに大事だとも思っていません。私も前に、あまりにもいろんなところでみんなが言うので仕方なく読んでみました(そのときは集中的に4,5冊は読みました)。いざ読み始めると、最初はそのストーリー・テーリングの卓抜さに感心したんですが、そのうち飽きました。何というか、私から見ると、フーコーが捉えた本質は勝間和代十夜が描いた本質と究極的に同じようなものなんですね。勝間和代十夜を読んで、勝間さんならありそうだと思ったとしても、本物があの通りであると思う人は誰もいません。フーコーの描く歴史も私には同じように思えるのです。ただし、両者ともにまったくの紛い物であれば、誰も惹かれません。きっと大事な何かを捉えているのでしょう。そこが面白いところです。フーコーのストーリー・テーリングを学ぼうとする歴史研究者はいるかもしれませんが、フーコーから資料の使い方を学ぼうとする人はいないんじゃないでしょうか。

ですが、濱口さんは私とはまったく違います。濱口さんはフーコーの重要性をカッコ付きで認めて、哲学的に考察することへの思いを述べているのです。内容ではなく、そういうことが出来ることに対して、「ああいいなあ」というつぶやきなのです。濱口さんの以前の哲学についての職業的レリバンス議論などを読み返せば分かると思いますが、濱口さんにとっては哲学はある意味で、普通、大学の学問に期待する学術的性格の象徴であるように私には見えます。哲学と政策の対比は哲学をアカデミズムと読み替えると分かりやすくなるでしょう。

簡単に本音ベースでいうと、アカデミズムではプロセスの方が大事、政策は結果の方が大事です。こういう視点に立って私はかつて、政策提言はプロパガンダ的性格を持たざるを得ないといったことがあります。濱口さんからそのときに、政策科学というものが成立するというコメントをいただきました。実は、二人の間に認識ギャップはまったくなく、プロパガンダという言葉に対する好みの問題で、濱口さんは単にそれが嫌だというだけのことでした。その拘りのなかになんとなく学問へのある種の信頼や尊敬、憧れといったものを感じることは出来るし、また、濱口さんの書かれるものの中にアカデミックな拘りを見つけることも難しくないでしょう。ただし、もしその拘りが政策遂行の障害になる局面が来たならば、躊躇なく、それを捨てるだろうと思います。そういうことが「政策の人」なんでしょう。現実のアンビバレントな要求、あるいは学問と政策の間の奇妙なバランス。そして、ときにそれに伴ってやってくる苦悩。そういうものを割りと正直に表現してしまうところが実は濱口さんの魅力かもしれません。
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コメント
やはりあなたこそ辛辣すぎるよ。
関係ないけど小玉さんに礼を言われました。
小玉さんにもずいぶんな暴言だったんだけど
2010/01/29(Fri) 14:54 | URL | いなば | 【編集
結果的にはそうかもしれませんね。
今回は否定しません。

フルネームは一度も使用していないので、
検索では引っかからず、消えていくでしょう。

ちなみに、小玉さんについてはあんまり暴言とは思いませんでした。
ちゃんと何に苦しんでいるかを内在的に汲んでいるので。
2010/01/29(Fri) 18:50 | URL | 金子良事 | 【編集
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