学生自治が衰退したとしても、自分達の不勉強を糊塗するために試験を中止させるがごとき不逞の輩がいなくなるのは結構なことである。実際、その政治的立場を問わず、学生運動における政治活動はそれ自体がフーコー的な意味で真に権力的であった。この場合、私が使うフーコー的意味での権力とはすなわち暴力である。看板に大学当局やときの政権、あるいはアメリカ帝国などを名指しして権力打倒を掲げていても、所詮、自分達の言説が一部にでも受け入れられるのは、社会が大学に対して自治原則を容認しているという事実を担保にしたからに過ぎない。それでも自分達が本気で使命感に燃えて運動をしている限りは、たとえ権力的であろうと、まだ救いようがあると思うが、人間の営みというのはおそらく必然的に救いがたい偽者を巻き込んでいく。すなわち、覚悟もなく周囲の、あるいは時代の雰囲気に流されて政治活動に挺身した結果、自らが勉強しなかった代償を自分で負わず、他人に負わせるがごとき不逞の輩である。

それはともかく、自治活動の一部は近年、たしかに大学当局によって秘かに潰されたが、そんなことをせずとも遅かれ早かれ、同じ結果になっただろう。大勢は自治の衰退であって、当局と学生の間の争いという単純な図式では語れないのだ。つまり、大学当局が一部自治会を潰したのは現状後追いに過ぎず、学生自治が決定的に弱まってしまったことの結果なのである。

私が所属した東大大学院経済学研究科の院生自治会はおそらく、現在でも機能している数少ない自治会活動であろう。だが、活動自体は相当に縮小しており、消滅はしないだろうが、衰退の一途を辿っている。昔のイメージしか持っていらっしゃらない方がいると、誤解されるかもしれないので、一応言っておくと、今は政治的対立は絶無である。みな関心さえもない。私は半期(今は半期制なので)委員長を経験し、その前後も含め色々な問題があったので相当に友人たちと議論したが、結局、衰退の最大の原因は院生の間に自治という感覚がまったくないことである。私が自治の重要性を痛感していたのは、偶々労使関係の勉強をしたからであり、これは大学院生としてはかなり特殊な経験に入るであろう。ちなみに、学部の自治会は今はもう存在しない。担当教官ないし事務局(当局)は私の個人的経験では概して親切で協力的であったし、どちらかといえば、自治会がなくなって非常に困っているという話さえあった。自治会が機能していれば、とりあえず、自治会の執行部に話を通すだけで済むが、それが出来なければ、個別に対応をするとか、定期的に説明会をするとか、しなくてはならないからだ。なお、大学院レベルで自治会が機能しているのは東大内ではもはや経済だけだと聞いている。敵対的な自治との対応はそれ自体がコストであったかもしれないが、完全に自治組織を潰えることが、新たに大学側の事務コストの増加を意味するのは理の当然である。

しかし、話はここで留まらない。集団的自治の崩壊どころか、今や自己規律の原則さえ崩壊しかねない状態である。学校によっては、出席の少ない学生に教師や事務方が電話を掛けて面倒をみるというところまで来ている。集団的自治以前である。もっとも、大学が学生の面倒を見ること自体は必ずしも悪いことではない。私の教えていた専門学校でも、相当に先生方が面倒を見ていたが、学生の間でも友人を救おうと努力はするものの、それがうまく行かず、こういう点を気をつけてアドバイスしてくれという話をする者もいた。学生、教師、事務方はそれぞれ立場が違うので、個別のケースではその違いを利用して、協力的に機能するのが最善であることは言を俟たない。

このような問題は実は一部では学力低下問題と同じように高校までの教育から先送りされてきている。例の「大学と職業との接続検討部会」でオリンパスの唐木さんが繰り返し述べられていた、大学は多様なことを引き受けすぎている、という指摘は正鵠を射ているが、実は学生を学校から外に出す最終機関であるために引き受けなければならない責任を、いわゆる全入時代において大学が引き受けざるを得なくなっているのである。

河合栄治郎はたしかに大学自治の危機の時代に理想主義を掲げ、敢然とその敵に立ち向かった。その勇気はこれからも人々を鼓舞し続けるかもしれない。だが、前回も述べたように、それは現代の自治の危機とはまったく性質が違うのである。

本とは関係ない方向に進んでいるけれども、いつかは戻ってくるはず。続く。
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