少し古い本だが『アメリカの大学・ニッポンの大学』を読んでいたら、『知的生産の技術』『論文の書き方』の二つの名前があがっていて、日本ではカリキュラムによってではなく、自ら知的ノウハウを身につけるようになっているという趣旨のことが書いてあった。ワープロの歴史(正確には日本語処理)を書くためにいろいろ調べたところ、『知的生産の技術』が実は重要な位置を与えられていることが分かった。直接的には、この中で梅棹先生が和文タイプライタを扱っているからであるが、わざわざこの本が言及されたのは知的道具としてワープロを認知してもらうためであったことは言を俟たないだろう。それだけこの本の評判は高かった。おそらく、これだけパソコン等の電子機器が増え、そのノウハウ本が主流になるまで、この本は必ず論文を書く際の参考文献の第一にあげられていたように思う。そんなこんなで『知的生産の技術』は画期的な本らしいと思っていたのだが、いかなる意味で画期的だったのか、きちんと考えたことがなかった。

『知的生産の技術』以前についても同じように、いわゆる知的生産のノウハウを書いた本は存在していた。実際、ここ数回取り上げた河合栄治郎の学生叢書シリーズ、特に『学生に与う』の中には具体的な読書の方法や勉強の方法が書いてある。それは田中菊雄の『現代読書法』でも同じことである。では、これらの本と何が違うか、といえば、いわゆる精神論で書かれていないことである。正確には、いわゆる精神論と一線を画しているところに、思想性があるともいえる。『理科系の作文技術』も同じ系譜に立っているといえるだろう(私は『論文の書き方』よりこちらの方がよい本だと思ってる)。

おそらく「技術」そのものには思想性が附与される場合があるが、ここで使用されている言葉としての「技術」にはそのような思想性を排除するという思想が含まれているような気がする。そして、まったくのこじつけかもしれないが、『知的生産の技術』の出現(初版1969年)はいわゆる「教養主義」の時代の終焉と見事に符合している。まあ、一つの走り書きに過ぎないが。
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