濱口先生から反論なのかどうなのかよく分からないコメントをいただきましたが、私自身の意図としては別に直接的に濱口先生を批判したつもりはありません。私は残念ながら原理主義者ではないので、正直、濱口先生といくつか議論を交わしたほうがよいなと思うこともしばしばあるのですが、濱口さんの議論はいろんなバランスの上に立っているので、切り口が難しかったのです(原理主義者であれば、レッテルを貼って攻撃すればよいので、簡単です)。そういう意味では、図らずも論争になったのは怪我の功名と考えましょう。言いたいことはたくさんありますが、前置きはこのくらいにしておきます。

私は職業訓練派を批判した覚えはありません。というか、職業訓練派なるものが何かもよく分かっていません。

> だからこそ、そういう暴力的限定が必要なのだというが、私の考えるところでは、職業教育訓練重視論の哲学的基軸であると、私は何の疑いもなく考えていたのですが、どうしてそれが、まったく180度反対の思想に描かれてしまうのか、そのあたりが大変興味があります。

濱口先生の覚悟は分かりますが、それはそれで勇み足で、むしろ私の方が「まあ待ってくれ」と言いたいところです。何しろ私は、職業訓練に対するいわれなき偏見を取り除くことが最重要課題だと思っているからです(この点はまったく意見が一致すると思っていますが)。私は、職業訓練について考えたこともないのに、自分が受けてきた教育の中でそういうものがなかったのが問題だと短絡的に考える人に対して「おいおい待てよ、考えてもみてくれ、職業教育だってバラ色じゃないぜ」と言っているだけに過ぎません。しかし、残念ながら、しばしば一般の人は経験と事実と論理を分けて考えることが出来ません。というか、別にこれこそ訓練すれば、誰でも修得できるものですが、そういう訓練を受ける機会は少ないのです。そういう風に考える習慣がないと、しばしば経験から一般化しようとしてしまいます。もちろん、この中に濱口先生は該当しません。両方にメリット、デメリットがあるのを承知の上で、いつもきちんと最後はエイと立場を決めていらっしゃるのもよく存じております。

> まあ、正直言って、初等教育段階でそういう暴力的自己限定を押しつけることには私自身忸怩たるものはありますが、少なくとも後期中等教育段階になってまで、同世代者の圧倒的多数を、普通科教育という名の下に、(あるいは、いささか挑発的に云えば、高等教育段階においてすら、たとえば経済学部教育という名の下に)何にでもなれるはずだという幼児的全能感を膨らませておいて、いざそこを出たら、「お前は何にも出来ない無能者だ」という世間の現実に直面させるという残酷さについては、いささか再検討の余地があるだろうとは思っています。

意外と本田さん的でびっくりです。

今現在問題になっている職に就けるかどうかについて教育制度云々は大して重要ではないと思います。原因は景気が悪いことに尽きるので、景気がよくなったら、ほとんどが解消してしまう。世界不況がなければ、問題はもっと緩和されていたかもしれません。とはいうものの、労働市場のミスマッチも存在し、実際、介護分野や中小企業など労働力不足のところもあるわけなので、企業、NPOを含めた需要側と学生(生徒)やそれをサポートする学校という供給側の相互努力によって、もうちょっとハッピーな関係を築けるかもしれない。それを築くための準備が高等教育機関に足りないというのならば、それはそうかもしれませんし、どこまでいっても足りないものだとも思います(完璧はあり得ない)。それに職業訓練および職業教育がこの問題の解決策になるとは思えません。実際、介護労働はほぼ無料で職業訓練を受けられるところもありながら、そこに人が流れていかない。そういう状況を変える努力は必要だと思いますが、教育制度及び訓練制度だけで何とかならないのも自明の理です。

また、大学での教育機能を講義やゼミだけと捉えるのもちょっといろいろ考え直すべきではあると思いますが、それは何れ別の機会に論じましょう。

> もしかしたら、「職業教育及び職業訓練の必要を主張する議論」という言葉で想定している中身が、金子さんとわたくしとでは全然違うのかも知れませんね。

その通りです。まったく違います。私が考えている職業教育はまったく暴力的ではありません。職業教育であれ、一般教育であれ、それを強制するから、暴力的なのです。

私が考える職業教育および職業訓練のメリットは一般教育と異なっている点にあります。そういう意味で濱口さんも紹介されていた田中先生のお話の通り、一般教育とは違う形で、一般教育で出来ると考えられている「人格教育」を行うことが出来る。というか、生徒によってはこちらの方が合う場合もある。生徒の立場から見ると、自分で合うものを選べれば最高だけれども、最初からばっちり選択できるとは限らないから、途中でルート変更することが出来る、ということが必要です。このルート変更はあくまで相互平等であって、どちらがより合うか合わないかなので、優劣の問題ではないはずです。しかし、現状では一般教育>職業教育、という偏見がその障害になっています。多分、どちらが優れているというのではなく、生徒によって適性が異なるだろうと考えています。一般教育と職業教育が並存する状況が望ましく、職業教育が実習その他の特色によって、一般教育とは異なる魅力があるんだと人々に認識されていれば、いうことはありません。そのためには、職業教育が行える「人格形成」の部分について、エピソードを紹介するだけではなく、きちんと理論武装して説明しなければならないと思います。

前にも書きましたが、職業訓練及び職業教育で身につくスキルというのはエントリ・レベルに過ぎません。企業特殊スキルや業界特殊スキル(これはクラフト世界では身につきますが、日本はそういう社会ではない)などは身につきませんから、持っている能力を発揮するのであっても、一定の時間は必要になるでしょうし、そもそもどの職業についても勉強(学習)はずっと必要です。そういう意味で専門スキルを売り物にしてエントリ・レベルの職業的レリバンスを強調することはほとんど大した意味がないですし、はっきり言って、職業教育の安売りをしているようにしか私には見えません。そうではなく、もっと深いレベルで職業教育の意義を考えることが出来るはずです。それを非神話化する必要があります。ただし、失対と非常に密接に関連している職業訓練についてはその限りではありません。ジョブとの接岸が大事ですから、エントリ・レベルのスキルは肝です。

そういう理論化が出来れば、以前、コメント欄で佐藤先生につっ込まれていたような、能開大は職業訓練指導員を作る学校なのにそれ以外のところに随分、行っているじゃないか、という議論に対しても、しっかり反論できるのです(コメント内容がうろ覚えで不正確かもしれません。すみません、検索できませんでした)。あのとき、能開大出身の方が自分はちゃんと社会の役に立ってきたという経験談をご自分のブログ(か、コメント欄か忘れましたが)で書かれていました。その思いは分かりますが、それだけでは不足で、そういう経験談を数多く集め、職業教育及び職業訓練を通じてどんな専門スキルと汎用スキルが身につくのかということを訴えていかなければなりません。ただ、これは言うほど簡単な道ではありません。一般教育においても汎用スキルが何か、決着していません。そういう意味での参照基準はないのですが、専門スキルを参照基準にする道はあるかもしれません。

ちなみに、現実にはどうしていけばいいのか、ということになると、また別の視点がいくつも入ってくる必要があります。そこは私のような現場経験のないもの論じても画餅に帰すだけですから、やめておきましょう。

追記 森直人さんコメントに関連して

「経験的」の意味が「実証的」、「実証的」の意味が「統計に耐え得る」という意味でのempiricalであるならば、その方法を発見するのは教育学関係者のお仕事なので「謹んでお任せ申し上げます」という感じです。ただ、基本的にはきちんとした事例を一つか二つか説明する方法が有用だと考えています。これは小池先生からの教えです(受け売りともいいますが)。もちろん、中間的な類型化をする必要はあるでしょう。
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