登場人物が多くて、煩雑になりましたので、敬称はすべて省略します。

戦後、1951年に雑誌『教育社会学研究』が刊行されます。巻頭論文は海後宗臣の「わが国教育社会学の課題」でした。そこでは教育領域の社会科学を確立させなきゃならない、そういう問題意識が充満しています。というか、実証的すべき領域はこの論文でほとんど明らかにされています。海後は職業社会学とのブリッジも言及しています。

海後は吉野作造の有名な明治文化研究会に参加され、そこから明治教育史研究を始められます。より広範な範囲をカバーした上で、教育史に取り組まれていったのです。実は、同じようなことは石川謙にもいえます。石川はもちろん『石門心学史の研究』の著者です。その石川の師匠は誰かといえば三上参次です。三上は有名な歴史学者。私は法制史的な研究を何篇か読みました。『石門心学史の研究』は扱っている時代が江戸時代ということもありますが、単純な学校の社会史ではありません。社会全体の広い教化が扱われているわけです。海後先生の研究もそういう広い視野を持っているはずです(何せ読んだのが10年近く前なので、自信がない)。結局、彼らの研究は事実上、教育社会学の史的研究とでも呼ぶべき性格を持っていたといえるのではないでしょうか。

教育社会学は戦前からその受け入れ土壌があったものの、基本的には戦後に本格的に導入されています。はっきりいえば、占領軍の支援が大きかった。清水義弘ははっきり「幸運なる出発」と記し、「獲得したものではなく、与えられたものであることを忘れてはなるまい。そして、与えられたものはいつまでも手に残るとは限らない」と書かれています(「教育社会学論」1958年10月)。

門外漢の私の見るところ、1970年代の後半までは基本的には日本の教育社会学の黎明期です。そこで議論されていたことは、ざっくり言ってしまえば、教育社会学が教育学や社会学から独立した社会科学足り得るためにはいかにあるべきかという問題です。もちろん、これはあくまでもざっくりなので、実際には歴史学や哲学など、その他の境界領域との関係も論じられますが、しかし、象徴的に捉えるならば、教育的社会学か教育の社会学かといった捉え方、教育学と社会学の関係が大事でした。

1954年の名古屋大会は重要でその主役は清水義弘、新堀通也、渡辺洋二の三者でした。それぞれが清水「教育社会学の構造」、新堀「教育学と教育社会学」、渡辺「曖昧な教育社会学;その曖昧性を除くために」となります。このうち、「曖昧性」は一つのキーワードになるわけです。

翻って、1977年の東京大会は教育社会学の固有性という問題関心の終焉を示す場でもありました。渡辺洋二「2つのシンポジウム「教育社会学の性格」を顧みて」の最後に「討論者の天野は世代による意識の「ずれ」を指摘し、この種の論議(引用者注;教育社会学のアイデンティティ)が他部門から教育社会学者に転じてきた第一世代に特有なもので、はじめから教育社会学を専攻し、「教育社会学の高度成長期」に育った第二世代にとっては、教育社会学が独自の学問であることを疑うこともなかったし、その性格が問題に成ることもなかったと主張した。顧みると、学会も30年の歳月を重ねているのである」と記しています。一応、厳密に言うならば、当事者であった佐々木徹郎は、第一世代は学会創設期に指導的役割を担った世代、第二世代はその下で育ちながら、教育社会学を育てた世代と分類しています(「何のための教育社会学論か」72-73頁)。考証チックに言うならば、この論文は先の引用の天野発言(これ自体が佐々木の問題提起に対するリアクションであった)に対して、自分達の世代的なアイデンティティを示したものと理解すべきでしょう。おそらく、最初の指導的な立場にあった方たち、たとえば、先ほどの海後先生などは教育社会学の存立基盤によって、自分の学者としてのアイデンティティ問題に悩むなどということは別になかったでしょう。その意味では、学会開始時にキャリアをスタートさせた研究者とは微妙に違うのかもしれません。しかし、教育社会学をテイクオフさせようとした、という問題意識を共有した点において、二つを一緒の世代にするのもよいかもしれません。

この時期までにあった議論に秘められた対立構造は、実践(主観容認)と価値中立的な科学(客観性の追及)の二つを軸にしており、実は、この二つは戦後の一時期、それこそほとんどの学問分野で問題にされていました。一番、大きいのは、マルクスをめぐる実践運動と研究の分立でしょう。日本の講座派は当初、共産党活動と密接に結びついており、だからこそ、今から見ればほとんど読む価値のない野呂栄太郎の『日本資本主義発達史』でさえ賞賛されていました(さすがに今はこんなことを言っても怒られないでしょう)。これに対し、講座派と労農派のいわゆる日本資本主義論争を見ながら、価値中立的なマルクス経済学を目指したのが宇野弘蔵でした。宇野は運動家たちにも社会主義にもシンパシーを感じていましたが、研究は価値中立を掲げ、それが一方で当時の若者をひきつけました。わが社会政策においても、河合栄治郎と大河内一男の対立は、平賀粛清をオミットしたら、哲学ないし思想と社会科学の何れを根本に据えるかという問題であったといえるでしょう。

教育社会学の中でも実践に役立つ科学か、価値中立的な科学か、というところで、前者が優勢であった情勢のなかで徐々に後者も認められてきたといえるでしょう。私自身は何度も言うように、実践に役立つ科学という温い考えは嫌いです。実は、その後の教育社会学の大きな枠組みは既にこの時期までに全部、出揃っていたといえるでしょう。私が読んだところでは、以下の論文が今でも(初学者にとって)読む価値があると思われます。

海後宗臣「わが国教育社会学の課題」『教育社会学』1、1951年5月。
清水義弘「教育社会学の構造」『教育社会学研究』6、1954年10月。
渡辺洋二「曖昧な教育社会学;その曖昧性を除くために」『教育社会学研究』6、1954年10月。
清水義弘「教育社会学論」『教育社会学研究』13、1958年10月。
池田秀男「教育制度の社会学としての教育社会学:教育社会学理論の体系化を目指して」『教育社会学研究』19、1964年7月
青井和夫「教育社会学方法論の根本問題」『教育社会学研究』34,1979年9月。

最初の清水論文には臨床社会学という立場が既に見られます。教育病理-臨床の関係は古くから教育の世界にはあったわけですから、当然といえば当然ですね。前回書いた志水はほぼこの路線に近い。清水論文と渡辺論文は、積極的か消極的かという方向の違いであって、内容はかなり一致していたと23年後のシンポジウムでは当事者の渡辺が振り返っています。

池田論文、青井論文は社会学を足場に教育社会学を展望しようとしたものです。青井論文にいたっては現象学どころか、ユング心理学や禅の悟りの話まで出てくる始末で、ここまでぶっ飛んだのはその後もないでしょう。逆に言うと、行き着くところまで行ったという感じがしないでもありません。ただ、それ以外のマトリックスの描き方などは今にも通じると思います。次のエントリで扱う予定の90年代以降の研究潮流もおそらく、このなかにほぼ落着く場所があるんじゃないでしょうか。
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