(1)では、岩田先生がなさっている研究、および貧困調査に関わる問題がきわめて重要であることを確認した。しかし、『現代の貧困』に提示されている「社会的排除」とその克服である「社会的包摂」という輸入概念でその解決の方向を示されると、それは必ずしも説得的ではないように思う。問題を投げかけたまま思案投げ首の態を決め込むよりも、意見を提示するのは全く誠実な姿勢であることを前提として受け入れた上で、私はあえてこう言いたいのである。ただし、何も住宅手当その他の具体的な提案に反対しているわけではない。問題はそうした個別具体的な「貧困政策」の正当性に関するグランド・セオリーがよく見えないのだ。そして、そのグラウンド・セオリーこそ、社会政策論であるべきだったのではないか。

 かつての社会福祉政策、イギリス流のソーシャル・ポリシーは私の見るところ、徐々に「社会政策」という言葉をドイツ派の伝統的「社会政策」から大した理論的な葛藤も経験せずに、奪いつつある。おそらく、それは学問それ自体よりも組織力、およびドイツ派「社会政策」の衰退によって、なし崩し的に達成されつつあるのである。端的に言えば、段々、社会政策は「Sozialpolitik」だと頑張る人が減ったのである。まぁ、派閥争いをしても生産的ではないので、そんな争いが起こらないのは結構なことだ。ちなみに、ご存じない方もいらっしゃるかもしれないが、大正時代の「社会政策」の英訳は元々、ソーシャル・リフォームであって、ソーシャル・ポリシーではない。どちらか言うと、「社会政策」に最初からそういう意図が込められていたというよりは、ソーシャル・リフォームの訳語が揺れながら、同じ言葉のなかに収斂していったという方が正しいだろう。

 それはともかく、昔から繰り返されてきた議論のうち、ひどく厄介なものは、社会政策の「社会」が一体何を指すのか、ということである。たとえば、「ソーシャル・インクルージョン=社会的包摂」といったときの元となる「社会」とは何を意味しているのだろうか。文脈から考えると、この場合の社会とは「日本社会」のことであろう。差当り地理的な条件から日本国の固有領土で成立している社会総体といってもよい(海外の日本人コミュニティは除いてよいだろう)。そこに住む人がお互いを認め合える社会、反対しにくいポリティカル・コレクト。しかし、左派以外の人には現実的な政策理念として響かないだろう。強いて反対すべくもないという感じだろうか。

 日常生活を送る上で社会的排除を受けていようとも、貧困問題は現に社会と繋がっており、切り離すことは出来ない。たとえば、スティグマの問題はその証拠であろう。貧困に陥ったことによって何らかのインフェリオリティ・コンプレックスを感じるならば、それは排除した社会の価値観に基づいているといえるだろう。もし、そうした劣等感が本人にとってあるいは社会全体にとって問題であるとするならば、論理構成上、排除する側の社会の価値観自体にも問題があることになる。だが、それを「現代日本社会の病理」などといっても、何も説明したことにはならないだろう。その善し悪しは問わずとも、価値観を共有しているという点において、全体社会は成立するのである。共通認識としておけるのはここまでだ。

 そうした価値観を丸ごと変容させて、排除していた人たちも排除されていた人たちもみんなハッピーな社会にすると考えるのならば、それはまさに古きソーシャル・リフォーム(社会改良)の考え方である。もし、そんなことを実現可能な青写真があるならば、これ以上のものはないだろう。では、その理想の価値観とはそもそもどういうもので、それを実現するにはどうすればよいのか。けだしこの問題を考えることは社会政策の本流であろう。

 とはいうものの、社会改良ないし社会政策における戦略上、ないし戦術上の橋頭堡としての貧困問題の意義は疑い得ないと思うが、貧困問題を解決しなければならないもっとも説得的な理由とは何かと考えてみると、実はよく分からない。また、引き続き、考えてみることにしよう。
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