明日の歴史班研究会の予習として久しぶりにスミスを読む。何度読んでもトマス・C・スミスはすごい。改めてその構想力の大きさに感じ入った次第である。ちなみに、ここに書いても、明日のレジュメは切らないので、関係者の皆さん、悪しからずよろしくお願いします。

序章で本人が書いている通り、この本の大きいテーマは日本の近代化がいかに達成されたのかである。スミス本人の歴史観は大きく言って、江戸時代に明治以降の日本の近代化が準備されていた、といってよいだろう。私も大枠ではこの意見に賛成である。

今回、読み直して得心したのはスミスがヴェーバーの官僚制論を下敷きにしていることである。具体的には、第5章の武士階級が農村から切り離され、その結果、官僚化し、必然的にメリトクラシーが出てくるというロジックである。こういう現象が進展すると、大名家そのものよりも実務を担当する武士の方が重要になる。トクヴィルの絶対王政下の官僚制の観察に似ている。また、スミスの議論と関連する本として笠谷和比古の『主君「押込」の構造』があげられるだろう(講談社学術文庫に入った)。スミスの武士論は第5章から第7章で読める。私が官僚化を重視するのは、武士の官僚化が必然的に、その事務の相手方の一部にも官僚化を促すと考えられるからである。その一つの具体例は農村の富裕層に年貢に関わる事務手続きのノウハウが蓄積されることである。この点で第2章の記述が示唆的である。また、商人たちと取引することでもやはり同じことが起きよう。

ただし、よく考えなければならない点は、官僚制論の中でヴェーバーが指摘した非人格的性質の理解である。この場合、対比語は「人格」であろう。ただし、ここで気をつけておく必要があるのは、スミスの考えている非人格的性質はある組織の中で「属人」的評価がなされないということではない。むしろ、力点はある組織の中の属人的評価が他の所属組織(家格、社会的身分など)に規定されないということにある。したがって、その組織限りでの個人ごとのメリット評価は、通常の言葉でいうところの身分制度を打ち壊していくものということが出来る。逆に言うと、スミスはこの問題には触れていないが、学校という別組織の属性が次の組織でのキャリアを決めていくという点を強調するならば、学歴社会を新しい身分社会と捉える古典的な議論は立派に成立するのである。しかし、その問題は差当り、スミスを考える際にはどうでもいい、ないし、重要度が低いように私には思える。

スミスの議論にもし、問題点があるとしたら、彼の分析対象の多くが社会(における)組織の中の枢要な部分を担う人々であることかもしれない。つまり、武士にしても、農家にしても、商人にしても、実際に彼らの生業を動かしていく主要な部分に光が当っているのである。それはある意味では実証手続き上、当然のことでもある。

だが、そのためにもっとも違和感を覚える点もある。具体的にはE.P.トムソンの有名な時間論文への反論になっている第9章である。その意味を説明するには、そもそもトムソンの議論が古典的なマルクスの議論をどれだけ超えているのか、という点に立ち戻って考える必要があるのかもしれない。私の印象では産業化初期の工場では、日本でもイギリスでも、必ずしもチャップリン的な規律ある時間管理が貫徹されていない。なぜなら、そこでいう多くの工場は、マルクス経済学用語でいうところの工場制手工業であったりするので、機械制大工場段階ではないのである。機械制大工場では機械体系が成立することによって労働が機械に規定される形で行われるので、人間の判断する余地が狭くなっていってしまう、と普通は考えられてきた。労働規律も機械に規定されるのである。俗に言う労働疎外論である。こういう見解をマテリアルな次元から解放し、思想や人々の規範にまで拡大しようとしたのがいわゆるマルクス主義社会史であり、トムソンはまさにその代表選手の一人であったといってよいだろう。初期の工場はアメリカでもイギリスでもドイツでも、もちろん、日本でも見られた、親方請負制のように、いわゆる労働者の裁量の余地は意外と大きかった。そこでの職長は彼らなりの方法で時間管理も行うだろうし、それは農村の指導者が志向していたことと似ていたかもしれない。だが、一般に信じられる単調な仕事を繰り返し行うという意味での労働(時間)規律と同一視できるだろうか。この意味での規律を身につけるには、やはり、近世とは切り離された形で労務管理が必要であったのである。トムソンの議論が日本には必ずしも当てはまらないということを論じるために、かえって彼が作った枠組みに引っ張られてしまったのだろう。

そして、もう一つ、スミスがインプリシットに、しかし、おそらくは意識して論じているのは日本における「公共性」の問題である。ここに踏み込めないと、自然法との対比、近代立憲君主制国家、恩恵の権利の意味などなど、解き明かすことが出来ないであろう。しかし・・・、問題の大きさと眠さから考えて、このあたりで諦めよう。

ちなみに、レジュメを切らない理由は、教育制度との関係で論点を作るのが差当り面倒だからである。その場の流れの中であわせていこう。
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