田中萬年先生から著書『教育と学校をめぐる三大誤解』と『働くための学習』をいただいた。一度、田中先生の議論を勉強したいと考えていたので、この一週間、この二冊を真剣に読んだ。しかし、私にはやはり「非教育」の論理というのは、論理として成立していないし、職業訓練及び職業教育の地位を向上させる、という大戦略への戦術としてもあまりうまくないと思っている。

この二冊の中の白眉は『教育と学校をめぐる三大誤解』における「教育」の形成過程についての考証であろう。私は残念ながら、この考証が正しいかどうか、判定する能力はないが、とても面白く読んだ。ここは田中先生のこの部分の考証を全面的に信頼した上で、以下の批判を書きたいと思う。

まず、田中先生ご自身の考証にあるように、言葉は変化するものである。したがって、「教育」の語源に問題があっても、現在の教育がその語源からの縛りを受けているということにはならない。事実、言葉としては「教育」に職業教育を含めるのは、教育学系の人以外にとっては違和感を覚えることもないだろう。むしろ、普通の人は一条校という区分さえ知らないので、みんな同じ学校だと思っている。お恥ずかしい話だが、私は一条校という言葉を知らなかったので、わざわざググッたくらいである。そんなに世間一般の常識でもないだろうと思っている。私はたまたま、労働分野にいたので、職業訓練大学校の所管が厚生労働省であることを知っていたが(ちなみに、防衛大学校が防衛省の所管であることはも知っていたが)、そんな区別を知っている人もあまりいないだろう。

さらに、あるべき教育概念として「キョウイク」を使っているのは何とも奇異な感じがする。田中先生はそれをエルゴナジーとして切り替えられ、職業訓練を根幹に置いていらっしゃられるが、もし「教育」を全廃したいのならば、上位概念として「キョウイク」を使うのはおかしな話である。漢字をカナにすればよいという問題ではないだろう。

田中先生はeducationが本来、開発の意味であり、日本語の教育には強制のニュアンスが含まれるという点で、これを回避すべきであると主張されている。そして、重点は「教える」ことではなく、学ぶ者の「学習」に置かれる。おそらく田中先生が意図されている教師とはメンターのようなものであろう。それはそれでいいけれども、強制がいいか自発がいいかは、一般論でいえば、真実はその中間にありであって、もうちょっと具体的にはケースバイケースであると思う。というのも、教わったり、アドバイスを受ける側は、そのときにはその意味が理解できなくとも、それを強制的にやらされる中で、そのアドバイスの真意を理解できるようになることがあるからだ(ということを私は先週、学生に課したレポートから教わった。そういわれればそうだよな)。実際、そのときは反撥していても、あとでは有難かったという経験は誰しもあるのではないか。とりわけ企業内の新人研修や職業訓練などに該当するものが、強制を伴わないわけがないし、逆にそれが全くなければ上手く行かないだろう。教わる側の自発性を重んじるのは、理念としては魅力的であるが、むしろ、重要なことは教える側が強制を行使するときに、その影響力の大きさに自覚を持つか否かではないかと私は思う。それは職業訓練でも、普通教育でも、企業内訓練でも、同じことだろう。

もう一つ、やや田中先生に誤解があるような気がするのは、普通教育における身体性の重要さである。もちろん、ここでの意味は体育という狭い意味ではない。身体性の重要さは大村はま先生も書かれていたし、例のプロ教師の諏訪先生も書かれていた。ただし、たとえば齋藤孝さんのように明示的に国語は体育だ!という形でカリキュラムの中に組み込むというのはたしかに稀かもしれない。その点、職業訓練、とりわけ製造業に関するそれの中では、実習がカリキュラムの一つとして重要な意味を持っており、この点では優位性があるといえるだろう。だが、それは重要ではあるけれども、あくまで職業教育の一部であって、たとえば、システム技術者になるためのカリキュラムに、普通教育と比べて身体性についての圧倒的優位性があるかどうかは疑問が残る。

職業教育の意義が重要であるという議論を説得的に展開するならば、理念ではなく、やはり具体的なレベルで論じた方がよいだろう。その一つのプランは生涯教育→生涯学習の議論をもっと徹底的に重視することである。この議論自体はもう数十年の歴史があるわけだが、ますます社会に出た人を取り込むという方向になるだろう。普通教育の論者は学校論者だから、子ども論が好きである。しかし、生涯学習論を重視するのであれば、子ども論は必須ではないし、かえって足かせになる可能性さえある。この点では、職業ライフを考えている職業訓練、職業教育は優位である。大学などではライフプランまでなかなか念頭においていないだろう。

「人格の完成」はもともとキリスト教から出て来た概念だが、我々日本人にとっては仏教で理解する方が馴染みやすいかもしれない。すなわち、解脱である。だが、そのような完成された人格の教師など、私は一人も出会ったことはない。「人格の完成」は究極の目標とする分にはよいが、所詮はお題目でしかない。したがって、これを教育実践の根本原理に置く事は非常に困難な道であるといわざるを得ない。そもそも解脱を果たした釈迦本人でさえ、縁なき衆生は度し難しといってすべての人を正しい方向に導けないことを嘆いているのである。いわんや我々凡人をや、である。「人格」を市民だとか、大人だとか、その程度のレベルで不正確に理解して考えると、教育は完成し得るものかもしれないが、もし私の述べた究極の目標として理解するならば、教育はベストウェイを常に模索としているという意味においてではなく、実際に目標を到達し得ないという意味において、未完であり、おまけに、金輪際、完成する見込みもほとんどないのである。

そうすると、現実的な目標はもう少しレベルを落とした方がよいだろう。たとえば、社会人として、あるいは職業人としてのスタートラインに立てる状態で送り出し、また、いったん社会に出た人たちがより自分の人生(職業ライフ、プライベートライフともに)を豊かに出来る手助けをすることである。後者の点ではやはり、何よりもノウハウの点において職業訓練、職業教育の方が一歩、有利ではないだろうか。ただし、この点をあまり強調しすぎるのも、微妙である。要するに、その職業訓練以外の分野に就職して、中には立派な活躍をしている人もいるので、こういう方たちを掬いとる議論が展開できずに袋小路に陥ってしまう。このあたりの理論的構成は考え直す必要があるだろう。

ちなみに、大学でも職業的意義ある講義が出来るんだという考え方もある。実際、森直人さんの本田由紀批判はまさにその極北である。だが、本田さんに学者としてではなく、教師として要求しているというのはこれは明らかにレトリックである。森さんは謙虚な方なのでみなまで言っていないが、要するに、こんなカリキュラムを組めるのは少なくともその当該分野についての自分なりの専門的蓄積がないと出来ないのである。したがって、その水準をクリアするためには、学者としての能力を当然要求されるのである。こんな学力水準を相場とするならば、少なくとも人文社会科学系について、大学は既に成立しておらず、そもそも昔から成立していなかったのではないか、という疑いが個人的にはなきにしもあらずである。森さんの言っていることはメチャクチャ過激で、自分の講義について具体例を示せないのは教育社会学の学者としての能力がないといっているに等しい。

大学と深い関係のない方には分かりにくいが、一般に大学の先生の中で研究をやっていない人は教育を実践しているという点で免罪される。そういう奇妙なロジックが存在する。森さんのレトリックはそれを逆手にとっている。しかもご丁寧に教育社会学における本田さんの位置づけをとりあえず高く評価した上で、この論理を使っている。行間を読まないで素直に読めば、あれ?と思うだろう。学者として要求しないの意味はおそらく、学者としての水準をクリアしているから問題にしないということではない。したがって、このレトリックには二重の意図が隠されていて、答えないのは教師としてどうなのかという意味であり、答えられないのは学者としてどうなのかという意味なのである。当然、答えないの中には、答えられないが含まれるのである。げに一番真摯な批判者は一番有難い存在であり、同時に一番恐ろしくもある。

なんで、わざわざ森さんを引き合いに出したかと言うと、専門教育に職業的レリバンスを実装させることは可能であることを示すと同時に、その実現の困難さを表しているからである。森さんがこんなとんでもないことをやってのけたのは、第一に学生への愛情(つまり、こんなしんどいことをやろうと考える胆力)、第二に(本人が満足しないにせよ)学者としての能力、第三にもともと学生さんが自分の職業的イメージを比較的、強く持っている、というような条件が重なったからである。要するに、何を言いたいかといえば、大学の講義で職業的レリバンスなんていったって難しいよね、ということである。

既存の「教育」概念を批判するのは奇道である。学問的裏づけをもって職業訓練・職業教育の存在証明を示すことこそが正道である。それをするだけの材料や条件は十二分にあるように思うのだが、まだ果たされていない。私がもし職業教育ないし職業訓練の実態をよく知っていたら。まことに力及ばず無念である。
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