田中先生から反論をいただきました。有難うございます。ただし、お気遣いは無用です。

根幹のところの「教育を受ける権利」を「学習権」に変えるという問題ですが、私も変えた方がいいと思います。でも、そのことと「教育」という言葉全体がよくないという話とは次元がやや異なるのです。ただ、あえていえば「学習」は学習者に焦点が当る言葉です。私は人生、森羅万象、学ぶ対象であると思っているので、わざわざ法律で定めてもらう必要は感じません。学ぶ機会はいくらでもあるんです。ですから、学習権とは一体どこにポイントがあるのか分かりませんが、それ自体は結構な考えだと思います。義務教育はそれとは別に定めればいい。この点は私の考えは民主党案と近いです。ただ、職業訓練であれ、普通教育であれ、特定の教えるべき内容を持った人との関係の中で何かを学ぶという点でいえば、学習だけでは足りないのです。

田中先生は教育の名前のもとで無私の精神で頑張っていらっしゃる方の存在を認めています。でも、そういう教育関係者は田中先生の議論を聞いて、自分達の仲間だと感じるでしょうか。教育=強制で動いている人と立派な教育をやっている人といったいどちらが多いと考えるべきなんでしょうか。あえて、私は学者の端くれであることを捨てていいますが、後者が多いと信じます。信仰告白と思ってくれても構いません。非常にプラクティカルに考えれば、教育という言葉を廃棄することは、産湯とともに赤子を流すことになるだろうと思います。だから、反対です。

ただ、例の「コンクリートから子どもへ」という意味の分からないタイトルの本に対しては明日か、明後日エントリを書きますが、この中で非常に寺脇さんが非常にいいことを言っている。研修というのは教師の学習権の保証なんだということです。ま、でも、温情主義でも何でも、強制と自発は簡単に意味がひっくり返りますから、研修だって長いこと日教組が反対してきたように管理(言葉としては統制の方が正確ですが)の道具になりかねない。ですから、注意は必要ですが、学習権という言葉は魅力的です。

気をつけないといけないのは、先ほど述べたように、教える者という視点が非常に後景に退いてしまう。これは問題なんですね。この点は苅谷剛彦先生が奥さんと大村はま先生で書いた『教えることの復権』をぜひ参照していただきたいと思います。苅谷先生の議論はとても重要です。先だって森さんが自分自身のシラバスと試験問題を公開して職業的意義を問うたように、苅谷先生もご自分がどのような理念でゼミを運営しているかを述べています(正確には過去形にすべきですが)。

話を単純にしていえば、完全に自発性を重んじる教育は可能なのかと問いたいと思います。まず、自発重視の教育は明らかに教える側のスキルが高くないと出来ない。実は苅谷さんが急進的な教育改革を冷ややかに見ておられたのはまさにこの点なんですね。いったい、どうやって急に教師にそんな能力を身につけさせるのか?という話です。昔、平泉対渡部の英語教育論争があったとき、渡部昇一さんが最後に突きつけた疑問は、いったいそんな能力の英語教師をどこから調達するのか?という問題でした。この問いに平泉さんは答えられなかった。苅谷さんは渡部昇一さんよりも相手に敬意をもって語られていますが、根本は同じ問題ですね。カリフォルニアの失敗例の話も、理念や内容が悪いといっているんではなくて、おそらく、どっちだといえば、賛成とおっしゃるかもしれません。ただし、成功させるための条件が厳しすぎ、そのボトルネックをクリアする道筋が見えないで改革に突っ込むのは反対、というわけです。まったく現実的な処方箋です。苅谷先生はそういうところに視点がいかないのは、ある意味では子ども中心に展開してきた議論と関係していると考えていらっしゃるのでしょう。そして、その議論と初期学習権の概念の台頭は密接に関連していたと私は思います(教育関連の方、間違ってたら指摘してください)。それから程なくしてか、ほぼ同時にか生涯学習の議論が存在するわけです。

それから「存在証明」という言葉を使ったのは失敗でした。あれはアイデンティティの意味で使ったんですが、存在証明だとなぜ職業訓練が社会的に必要かという意味に取れますね。

> 不登校者が職業訓練を受けて社会で活躍しているだけで、高校中退者が職業訓練をうけて仕事に励んでいるだけで、失業者が職業訓練を受けて再就職できているだけで、在職労働者が職業訓練を受けて仕事に自信を持てただけで、職業訓練の意義は充分であろう。それ以上の職業訓練の存在証明がいるのだろうか。

私から見ると、田中先生が書かれていることは当たり前であって、このレベルでの職業訓練の意義なんてものは議論するまでもないという判断です。世間一般に対しては常識として知っておけといいたいレベルです。逆に言うと、外部からしか職業訓練を知らない私でも分かってしまう話なのです。そうではなくて、やはり職業訓練の中身を知る田中先生をはじめとする皆さんにこそ、職業訓練や職業教育が他の教育、あるいは企業内訓練とも異なるアドバンテージを持っているんだということを語って欲しいんです。特に不登校の生徒を立派に育成する。これはまさに人格の完成への第一歩に違いない。そのメカニズムをもっと知りたい。田中先生は「手に職」という話から説明されているけれども、もっと違う何かがあるんじゃないか、そう思うわけです。ですが、これは私が田中先生の議論をまだ十分に勉強していない、という側面もかなりあります。すみません。

労働まわりの話は実は途中、書いたんですが、あまりにも論点が拡散するので、別に保存して置いてあります。寺小屋論と実業教育まわりのことと絡めて書きます。しばらくお待ちください。ただ労働権の話は私は人権という考え方そのものがよいのか悪いのか、「法の支配」「法による支配」「法治国家」との関連で答えが出ていないので、ちょっとお応えできないかもしれません。

最後に「職業訓練を受けて今の俺がある」という人がいないというのは極論です。私が以前、ネット上で職業訓練のことを調べたときには何人か職業訓練を受けた誇りを書いていらっしゃる方がやはりいらっしゃいました。声高に叫ぶのではなく、そういう風に静かに語られることこそ、職業訓練・職業教育の誇りではないでしょうか。もちろん、田中先生が職業訓練受難の今、そのような声が響き渡らないことを忸怩たる思いでいらっしゃることも承知しております。私のような者が書くのが僭越なことは十二分に承知しておりますが、田中先生からそのような言葉が出ては先生の教えを受けた方々、それから職業訓練を受けた方々は悲しまれることと存じます。あえて諫言申し上げる次第です。
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