明日の理論科研の全体会での宿題(森班長からの依頼)。そもそもはいろんな角度からつっ込みどころがあるから、議論が活発になるだろうという広田先生の発案。この本は民主党のスズカンこと鈴木寛文部科学副大臣とゆとり教育で勇名を馳せた寺脇研氏の対談。それにしても、教育の人はみんな自分のことを語りたがるんだな(笑)。ちなみに、私は政治的にはニュートラルで、ぜひ民主党がいいとも思わないし、ぜひ自民党がいいとも思わない。いい政策を出せば、その限りでは党派を超えて応援すべきだと考えている。

スズカンと寺脇さんはカタリバ大学の同志でもあるらしい。教育理念や何かでは結構通じるものがあるのだろう。理念、思想のレベルでは、私は彼らが考えている方向に大きな違和感を持っていないし、大筋では結構であるとさえ思う。ただし、その改革の進め方、現状認識の仕方は、これがアジビラであることを差し引いても、というか、もっと根本的なレベルでダメだと思う。それは80年代以降のポストモダン思想の流れの浅薄さと軌を一にしているような気がする。

大雑把に問題を指摘すると、大枠で進歩史観を取っていることがあげられる。進歩史観のいかがわしさというのは、自分達は新しいからよくて、それが分からないやつらは古いからダメだという発想に結びつきやすいことだ。実際、この本で述べられている二つのパターンは、工場型から劇場型へというテーゼとモダンからポストモダンであり、いたるところで工場型思考から抜け出ていないなどという表現が出てきている。そして、残念なのは、工場型という理屈が、通俗的な大量生産概念を一歩も抜け出ておらず、したがって、非常にチャップリン的であり、実際の工場システムの進展とはかけ離れているということである。しかし、こうした理解に見られる特徴は、ただ残念というだけではなく、非常に根本的なレベルで教育改革を混乱に陥れかねない、その予兆であるように思われるのである。

あえて意地悪く言えば、右か左かの当てはめの挑発にのらないのは結構だが、工場型か劇場型か、近代型かポスト近代型かという当てはめはそれとどの程度違うのだろうか?人に当てはめられるのは嫌だけど、自分たちは同じように他人を当てはめるのは構わないのか。ダブル・スタンダードといわずして何と言おう。

端的に言って「工場型」という理解は、家内工業の発展形態である集団作業場レベルの話である。それは現代でもなくなったわけではないが、近代以前からある形態である。工場が非常に単純な仕事しかやっていない、あるいは、職務分析に帰すような単純作業に解体できるという理解は根本的に間違っている。工場制度に関する最初の本格的な考察をしたのはバベッジとユアである。ユアはむしろエンジニアによる技術革新を重視している。近代工場のモデルは19世紀を通じて紡績工場であった。それは一言で言えば、装置産業である。だからこそ、マルクスは機械に従属する労働、いわゆる労働疎外を問題にしたのである。しかし、結局、熟練(最近の言葉で言えば技能)は現在に至るまで消滅することはなく、その内容を変化させただけである。この「工場型」の理解は19世紀末から20世紀初頭の文明批評にでも出てくる通俗レベルではないか。そして、こうした複雑さを理解していないことは「管理」の意味を全く解しないということとほぼ等しい。十分な訓練を受ける機会を与えられない非正規だけで、工場が回ってるとでも思っているのだろうか?

一番の疑問は、そんなに自発が好きなら、なぜ研修というのか。あえて挑発的に言えば、教員資格など全部、廃棄してしまえばいいじゃないか。カタリバ大学のボランティアたちの教育力を高く評価するというのは、私は正しい道だと思うが、そういう機会を専門職大学院における研修制度の充実という形で上から与えるというのは、曽野綾子が唱えた奉仕の義務化と同じではないのか。はっきり言って、理念と政策が矛盾しているのである。別にそのこと自体は取り立てて特別なことではないが、理念が大事だと言って理念を大いに啓蒙しておいて、やっていることは理念と必ずしも一致していないのである。つまり、二人が語る理念をもっともよく実現するためには、カタリバ大学の教育ボランティアに教員資格を発行すればいいのである。何も現行の教員資格の改良に拘る必要などないのである。これは実は彼らの理念からすれば、まったく矛盾していない。教育が学校教育だけで済んでいた時代は学校の中で教師を育てればよかったが、社会教育も重要になるということになると、別に教師は学校以外から調達してもいい。ダブルメジャーで教育を絡ませる必要さえもない。

本来、専門職というのはその技能の専門性によって成立しているものなのである。しかし、現状の日本の教員資格は必ずしもそのような専門性の保証になっていない。鈴木さんが指摘するように、緩くていくらでも取れるからである。にもかかわらず、資格がなければ教員が出来ないというのは、正規の徒弟制度を経ていないで徒弟になるのは違法である、というくらいの意味しかないではないか。普通の職業であったら、市場原理が働くのでアウトサイダーを雇用するところが出てくる。しかし、教育市場ではそれが出来ていない。なぜなら、国家統制が効いているからである。要するに、ギルドの正当性を国家が担保しているのである。だが、国家自体がどのように正当性を担保し続けることが出来るのか、という点については誰も言っていない。

古くは、臨時工から本工の登用、今風に言えば、非正規から正規への登用といったように、教育ボランティアから正規教員を登用するのは、教員資格という縛りを外せば、労務管理的には非常に現実的、かついい制度である。一月未満の教育実習を経ただけの新米教員よりも、数年単位で一緒に働き、人柄も信用できるということになれば、それだけで教員に値するではないか。もう少し、現実的なことをいえば、いきなり正規採用とすることは出来なくても、それまでのキャリアが信頼に値するものと判断されれば、教員資格がなくとも臨時教員として働くことを許可し(その判定は教育現場である学校の裁量)、さらに、たとえば3年間、問題なければ、資格なしで正規教員への登用を許可、さらに正規採用後、2年勤務で普通の教員資格(別の学校でもいきなり正規に教壇に立つことが保証される)が自動的に附与されるという風にすればいい。これさえもあえて資格に拘るならばの話である。

このような案を書くと、現場の教師に対する攻撃であると早とちりする方もいらっしゃるかもしれないが、話はまったく逆である。今までは何の根拠もなく現場の教師が攻撃されてきたのであって、資格もなく横一線になったら、そのときにこそ蓄積されてきた経験の差が彼らこそ教育に本当に必要な存在であることを示してくれるだろう。

それに私は揚げ足取りだけでこんなことを書いているわけではない。彼らが言うように、教育者が「ティーチャー」であるより、「エデュケーター」であるように役割を転換していくならば、それは「メンター」や「セラピスト」という側面を強くせざるを得ない。そうであるならば、セラピストの資格が百花繚乱の態をなしている現状をよく考えるべきである。多様性を許容するということは、標準化の逆であり、したがって、教員の資格が混乱していく方が自然なのである。それを国家が統制するならば、それこそ富国強兵時代の、彼らが言うところの「工場型」発想である。

それにしても完全に自由なコミュニティ・スクールの運営を任すプロフェッショナルを専門職大学院で作るというのは人材育成としてはとても筋が悪いプランではないか。その目的でやるならば、現場経験10年程度の優秀な教員に1年、出来れば2年の監督者教育(再訓練ともいう)を受ける機会を与える方がよい。その教育の場は国内の大学でもいいが、そういうプロフェッショナルを育てるコミュニティ・スクールでもいいし、海外の大学でもいい。もちろん、給与保証、学費免除である。

というわけで、明日のレジュメにしなきゃ。3行くらいでいいか。

追記

あ、そうそう、この本では、民主党が大正デモクラシーから昭和初期の軍国時代への流れと同じ道に行くのを食い止めたというようなことを書いてあったが、その昭和初期に国会で統帥権干犯を主張し、軍部の暴走をリードした代議士の名前が書いていなかったので、念のために記しておこう。

鳩山一郎。
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