前エントリで世論一般を捉えるというようなことを書いて、それは難しいんじゃないかという話があったので、そのことについて書きたいと思います。私が書いたこの場合の世論一般はあくまで政策を動かす世論であって、世間の人が本当にどう感じていたのかということはあまり重要だと思っていません。念のために言っておきますが、歴史研究として扱うに際してはという意味ですよ。

日本語と教育は10年に一回くらいはブームがきます。みんな関心があるから、いつも危機にさらされている(笑)。それは冗談だとしても、教育関係は労働やら他の分野に比べて、もともと発言する人が多い。とにかく、教育改革のなんとか会議に出席するとみんな本にする。そして、その本をきっかけにして、雑誌(オピニオン誌)で特集が組まれたり、昔だったらムックになったり、今だったら中公ラクレになったり(笑)します。とりわけ、対談なんかだとそんなに複雑なことはいえませんので、どうしても話を単純化せざるを得ない。そういうものは捉えられるんじゃないかと思います。具体的な数値だったら、出版点数なんかでね。

学術論文にどれだけ反映させることが出来るか分からないけれども、いわゆる通俗本にチラッと書いてある、その当時の人の実感は定量化は出来なくても、大事にした方がいいと思います。前に藤澤さんの『ごまかし勉強』を取り上げましたが、あの本には半分くらいそういう意味もあるんです。特に、参考書の論証とかね。もちろん、限界はあるし、ご本人だってそれを意識しているけれども、というより、ゆえにあれは一つのよいお手本だと思っています。今は浅はかにも歴史研究では一次史料を使うことが一つの研究水準を作っているところがありますが、真っ当な研究者はそれ以外にも大切なことがあることをよくよく承知しています。そうすると、浅はかな人たちはいきなり一次史料を読んで、論文をいきなり書くという暴挙に出ます。一次史料が圧倒的なリアリティを持っていることは私も経験上よく知っていますが、二次史料も大量に読むと、それなりのリアリティを感じることが出来るんです。そして、その質は必ずしも一次史料とは同じではないかもしれない。一次史料は日本の場合、分野にもよりますが、探すのが大変。ただ、いったん、見つかったら可能な限り二次史料を網羅するというのは手間なので、いきなり一次史料だけとなりがちなんですよね。自戒をこめて言うと、その場合、判断基準は論文の核になる史料があれば、まいいかということになっちゃう。恐ろしいことです。

それにしても、歴史の論証なんて完璧には出来ないかもしれないけど、いろいろ手はあると思いますよ。というか、社会科学系の論証は完全なんてことはあり得ないんです。ぶっちゃけて言えば程度問題なんですね。そこを割り切れないような頭の固い思想系というより、思想好きな人たちは泥臭い研究を全否定し、ナイーブな歴史研究者や現状の調査研究者はそれでコンプレックスを感じたりするわけです。それを解決する方法はただ一つ。TAKE IT EASY!

でも、本当に歴史研究に方法論があるとすれば、資料を介した考証の仕方に、どういう問題点があるか、あるいはどう改善すればより史実復元及びその理論的&考証方法の解釈にリアリティを持たせることが出来るのか、という議論ではないかと思います。ちなみに、歴史ではなく調査だと、対象の相手が匿名性を要求してきた場合、具体性を薄めつつ、リアリティを失くさない、そういう別の工夫が必要になってくるようです。
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