昨日、聖学院大学の図書館を歩いていたら、『社会政策と社会行政』という古い本にであった。奥付を確認してみると、1991年。その第1章は武川先生の「社会政策とは何か」というノートで、日本の社会政策論とイギリスのsocial policyを比較している。

多分、武川先生の社会政策の定義を改革すべき論(?)は1985年の 「労働政策から社会政策へ」 社会保障研究所編『福祉政策の基本問題』東京大学出版会が最初だと思う。最新のものは『社会政策』創刊号の巻頭論文であろう。そうすると、10年一昔というが、ほぼ四半世紀も大河内批判を繰り返していることになる。いったい、どれくらい同じネタで論文を量産し続けるのだろうか。それはともかく、この「社会政策とは何か」はイギリスのソーシャル・ポリシーがどのように展開してきたのか、概観するのにはよく整理されてあり、とても便利なものだ。

大河内批判にはもともと二つの系統がある。一つは、マルクスの議論を母胎とするもののなかで、極端に言えば、解釈論争だろうか。服部英太郎、岸本英太郎の両先生を代表として、その後、中西先生に終止符を打つ流れだ。いわゆる社会政策本質論争はこのグループに属する。もう一つは、それ以外、とでもいえるだろうか。実はこっちの流れも昔から細々とあるのだが、最近の流れを作ったものとして一つの転換になっているのが岡田与好先生の「社会政策とは何か」(『社会科学研究(東大社研)』第32巻第1号、1981年)だろう。武川ノートと同じ名前!(ただし、参考文献に岡田論文はちゃんとあげられている)。岡田先生の論文は氏原正治郎還暦記念号に寄せたものであった。

岡田論文は、経済企画庁国民生活政策課編の有名な報告書『総合社会政策を求めて』(1977年)に触発されて、社会政策学会をホームグラウンドとする社会政策学者たちを批判したものである。これに対しては荒又重雄先生が「福祉国家論と社会政策学」のなかで反批判されているが、実はこの論文もネットで読めるのだ。ただ、私は岡田先生の論調を「悪罵に近い」とは感じなかった。むしろ、鼓舞しているという感じだろうか。

荒又論文についてはまた別に考えるとして、さしあたり、結論部分のところを紹介したい。すなわち、岡田論文の「社会政策学会の支配的見解」、大河内概念を評した「社会政策学会の主流的社会政策概念」などの表現について「そうした言葉使いと、その背後にある感情とは学問にふさわしくない。これらの言葉にはおそらく根拠がないし、根拠づけようとする努力のあとはみられない。そして、それらの言葉のために、社会政策学会会員としての筆者は、論旨を冷静にとらえるために余分のエネルギーを要求されたのである」と書かれている。そして、その前には「研究は絶えざる対立をはらみながら進むのであるから」自分の考え方がどれだけ共有されているのか「確かめるつもりはない」と宣言されている。

とはいうものの、荒又先生の論文は大まかに言って、マルクス経済学(ないし社会学)をベースにした社会政策学の一つの典型的な手法を使っている(文中の表現で言えば「常識的な見地」)。個人的な印象では、その手法はある時代までの研究者が少なくとも常識として知っているマナーであったように思う。私は宇野理論にも講座派にも何の思い入れもないが、1990年代を境にしてこのような古きよきマルクス関連の学派が衰退してしまったことはとても残念なことだ。

荒又論文とはまったく別の切り口、イギリスのソーシャル・ポリシー論からこの問題に迫っている注目すべき研究にも出合った。柏野健三「英国social policy論に見られる基調価値」である。私は不勉強なことに柏野先生を存じ上げなかったが、イギリス社会政策史研究、特にベヴァリッジをご専門とされているらしい。

柏野論文は、social policyの概念についてベヴァリッジとマーシャルの概念を中心に検討されているのだが、その途中にはティトマスの議論も出ている。なかでも印象的なのは、マーシャルがソーシャル・ポリシーに厳密な定義はないと述べた箇所を引用した次である。

筆者の見解と同じである。学問的にはsocial policyは認知されたと思われるが、用語としての厳密な定義が存在しているわけではない。従って、Marshallがどのような文脈においてsocial policyを使用しているのかを考察することによって、更に、Beveridgeや他の社会福祉研究者がどのような文脈で、どのような意味で使用しているかを考察することによってしか、social policyの共通的意味を探ることはできない。しかし、更に言えば、英国の社会福祉研究者にとって学問の対象としてのsocial policyには関心があったとしても、定義としてのsocial policyには関心がないともいえるのである。重要なのは、social policyの定義ではなく、social policyがどのような文脈において使用し、何を読者に訴えるかであるかもしれない

ここで書かれているのはきわめて面白い指摘である。けだし論じられているのは、古典的に言い古された、ドイツ流の観念論(ないし本質論)とイギリス流経験論の対比だ。ただ、定義や概念を文脈に即して理解するというのはいかなる場合も共通させるべき作法であって、大河内社会政策論も大河内先生の議論に即して理解すべきなのである(この点は佐口先生の質問の通り)。そして、論者によって様々な定義が成立しうる点においては、荒又先生の先に紹介した見解だって柏野先生の指摘と共通している。

というか、元々このエントリは柏野論文を整理しようとしてたのだが、荒又論文を入れたら、方向が全然違う方向に行ってしまった。また、改めて、書くことにしよう。
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