今日でようやくのこと、前期の講義が終わった。それぞれ、どうだっただろうか。手ごたえはあっただろうか。学部の方針により出席を取るということなので、その最低条件をクリアさえしたものにとっては私の講義は楽勝科目であったろう(まだ成績は出してないけど)。就職活動中の4年生には出席不足分の救済措置を施したが、2,3年生については問答無用である。

事前にほぼ問題を教えてあるので、テストはそれだけ出来ればよい。語句問題の解答は教えたが、論述(語句説明)は文章にせず骨組みだけ板書して、説明をしただけなので、そこは学生が考えることになっている。といっても、まあ予想通り、おそらく誰か中心の子か、グループがやったものを何人かが参照したものと思われる。サイモンの限定的合理性仮説が経済学が前提とする経済人仮説に対してどのような意味を持っているのかという問題はみんな同じ答えで、きれいに全滅であった。世の心ある先生方はこのような学生たちを嘆かれるかもしれないが、私はとても安心した。

実際のところ、出来る子は放っておいても出来るし、出来ない子はモチベーション管理(カウンセリング、学習の支援!)をしないと出来ない。しかし、そこまで一つの講義で細かく見ることは出来ない。では、その子たちの到達目標はどこらへんに置くべきか。私は仲間と協力し合うことでもいいと思っている。社会科学については新書レベルの本を読みかじった程度では気休め程度にしかならない。まして、自分で洞察したのではなく、他人の本から得た知識を振り回すだけであれば、これはもはや有害である。そういうレベルの研究者もたくさんいるし、実際に見てもきたが、私の教育でそんな人間を世に送り出すようであったら、世間様に対して申し訳が立たない。ぎりぎり決着のところ、自分一人で本を読んで勉強した人間より、自分の分からないことを誰かと協力してやれる人間の方がよい。そして、それを実践するのは本人が意識しなくても、私が何度も講義で強調してきた、組織で働くことの根本、協働の第一歩なのである。インターネットから自分だけネタを探してくるのはあまり感心しないが、仲間うちで相談することは結構である。

私から見ると、流行りの学者の説に乗っかることと、学生のコピペの間に境界線はない(あえて言えば、学生諸君も出典を示せばいいが)。もし完全にコピペがダメだというならば、学者の資格も全員同じにするがいい。たちまち、社会科学系の学会の多くは立ち行かなくなるのではないか。もちろん、現実主義者の私はそんなことをするのがいいと思っているわけではない。

普通に考えて、短期の試験および単位の成績は要領の良いものが得をし、要領が悪いものが損をする仕組みである。が、過去の私自身がそうであったように要領の良い学生というものは教師がそう易々とコントロールできるものではない。彼らは最小限の努力で最大の成果をあげる術を心得ており、向こうの方が一枚も二枚も上手である。実は、こちらがペーパーテストを難しくして、しかし、何とか学生を助けてあげたくて精妙な形でヒントを出そうとすると、もっとも得をするのは彼らである。本当は救ってあげたい子たちには残念ながらサインが届かない。

覚えるタイプの試験で難易度をあげた場合の予想成績分布は、トップ5%が真面目に授業を受け、勉強も熱心に行った学生、次の20%くらいには真面目に取り組んだけど、ちょっと些細な勘違いがいくつかある子、そしてここに要領組が食い込んでくる。彼らを排除することは出来ない。ここから下はコツコツ組と要領組が混然となる。そして、最下層には要領組が姿を消している(そんなところにいるようでは、要領がよいとはいえない)。

優秀な要領組の優位性を飛ばすには、テストで正解することを容易にさせ、格差を縮減するに如くはない。弊害はやや二番手クラスの要領組も上位に顔を出してくることだが、それは止むを得ない。それよりも頑張っても合格当落線上の学生を引き上げることが出来るメリットが大きい。今はGPAなどという愚かなシステムを使って成績をつけるので、60点がボーダーラインになっている。ガチでやると彼らは儚く散ることになる。そして、最悪なのは自分たちが出来なかったことを、やっぱり、あの先生の授業は自分たちの頭では難しかったと総括してしまうことである。まったく危険である。今回は私の希望するところまではほぼ拾えた。

問題は単位が取れるラインには当然ながらいるが、問題を簡単にして格差の縮減を狙ったため、要領組はまとめて上位に顔を出し、自分でコツコツ考えて勉強した子が中堅かやや下になってしまう。しかし、これは数として非常に少ない。数人である。

ちなみに、私はどの講義でも最初のガイダンスに大学の講義との付き合い方を説明する。まず、最初にテストの点数を取ることと、勉強は異なることから入る。この時点で問題を予め教えることを予告し、それだけを対応すれば単位の獲得が容易だと説明し、そんなものは本物ではないと話す。ただし、本当の勉強は本人がやりたいときになって始めればいいと話す。馬を水辺に連れてくることは出来ても、水を飲ますことは出来ない。

基本的にどんな科目を受け持っても、出来るだけ幅広い範囲のことを浅く広く教えようと思っている。看板(担当科目)は様々でその都度濃淡の差はつけるが、ニッチな学問の話ではなく産業社会(経済社会といってもいいけど)を理解するように歴史を織り交ぜながらいろいろ話をする。経営学にせよ、労働経済(労使関係)にせよ、社会政策にせよ、そういう認識はいずれも重要である。だが、これらの話は8割方、忘れて帰ってもらっても構わないし、理解できなくても構わない。ただ、その中で少しでも引っかかるものがあれば十分である。そこから次の難しい本にチャレンジしてくれれば、もう何も言うことはない。僥倖である。以上を重視しているため、もちろん、あのテストに漂う独特なある種、厳粛な時空間は大事だとも思うのだが、教育上の理由からは私はテストをほとんど重視していない。実際、テストなどというものは詰まらないものだということも公言する。

とはいえ、もしそんなことが分かっていたとしてもも、要領がよいためにそんなに勉強していない人間よりも、一生懸命やった自分の方が成績が悪ければ、落ち込むこともあるだろう。ここは出来る限りフォローしたい。本当に難しいが、感想等で何かしらのきっかけがあれば、コメントという形で学生に簡単な手紙を書いて(今回はこれから書きます)、事務を通じて渡してもらう(つもり、まだ今回は相談してないけど)。そして、そういう子はそういう子で自分なりの考えを書いているので、対応可能な場合がある。また、数も限られているのも大きい。この場合、事務方が学生思いかどうかが分かれ道だが、私の教えている学校は幸い、何れもその点では信頼できるところであった。ここまでで通常の形であれば、対応できるのだが、今回は別枠があった。体育会系である。

眠くなったので、続きは明日。もうすでに長い。
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