森さんがせっかく紹介してくれたんで、「何となく工場法が作られた経緯を思い出」す経緯を簡単に説明します。そもそも、工場法って何?という方もいらっしゃると思いますが、これは今の労働基準法の戦前版です。説明しだすと、いろいろと違いはありますが、基本的に工場労働者、それも女性と子どもを保護することをメインに作られた法律です。

その工場法が公布されたのは明治44(1911)年です。ですが、これは日露戦争(明治38年)の影響で遅れてしまいこの時期にずれ込んだんですが、基本的には20年代から30年代前半にかけてほぼ原案を作り上げていったんです。細かいことは忘れたんですが、工場法はもともと工場主の監督、労働者の監督がメインだったんですね。なんでかというと、当時、工場は次なる社会不安のもとになるんじゃないかという恐怖があった。一応、幕末の混乱は明治10年の西南戦争で終わるんですが、マルクスのように煽る人たちもいるし、ヨーロッパの方では工場がやばいことになってるらしい、という認識があって、このまま西洋化して経済が発展してきたら、当然、日本でも同じことが起こるだろう、そうすると、次は労働者をなんとかしなきゃいかん、という考えが俄かに出てくるんです。本当はそれに先立って鉱山の方で、社会問題化した事件があって、これが鉱業法に労働者保護規定が盛り込まれるというところまで展開していきました。工場法はそれを受けてのことなんですね。

ところが、法律を作る段階で実業界、いやもっと正確に言うと、紡績業から待ったが掛った。なぜ紡績業から待ったが掛ったかといえば、当該産業が女性やこの当時は幼少の子どもを使っているところもあったので、ダイレクトに規制を受ける産業だったから、というのが普通に考えられる答えでしょう。しかし、実際には、この当時、業界団体は蚕糸業と紡績しかなかった。そういう意味で、労働問題にきちんと発言できる基盤を持っていたのは彼らだけだったんです。蚕糸業の団体も今も続いていますが、これは品質チェックに特化していて、政治的な動きをするという感じではない。だから、実業界で政府から工場法の諮問を受けた具体的には商工会議所と紡績、蚕糸の業界団体だけなんですよ。そのあと、日本工業倶楽部が強くなっていきますけど、これは大正の半ばに作られていきます。

で、この今に続く紡績の業界団体。今は日本紡績協会(紡協と略します)、かつての大日本紡績聯盟(紡聯)です。彼らはいったい何をいったのか。いきなり、外国の、もっと具体的にいえばドイツの営業条例あたりを直訳しないで、まずは日本の現状がどうなってるかちゃんと調べろ、と要求したわけです。そして、彼ら自身も明治41年に「紡績職工事情調査概要報告書」をまとめるわけです。政府側、というか農商務省は基本的に、現状を調べて政策を作りこもうじゃないかという前田正名がこの時期にはもう既に失脚していますので、調べる人がいない。そこで内務省衛生局の窪田静太郎が農商務省に出向という形で、彼がトップになって調査を行います。世に言う「職工事情」です。ちなみに、職工事情より紡績職工事情調査概要報告書の方が出来がいいです。ただし、後者は紡績だけですけどね。両方とも近代デジタルライブラリーで読めますので、検索してみてください。

この調査の過程で、労働者を規制するよりも、彼女たち(女工さんがメインだったので)にはそんな元気はない。むしろ保護することが先決だという話になっていくわけです。これが工場法をめぐって政策が旋回していくという話です。

ちなみに、規制の話も一方で残って、悪名高き治安警察法第25条になっていきます。が、それはまた別のお話です。
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