萬年先生が前に書いた「工場法、旋回の内実」を紹介してくださったが、こんなにもツーカーで分かりあえるものかという驚きと、少しの違和感が残った。時間がないときは人は合理主義者にならざるを得ないので、違和感の方だけ書いて、材料を提供したい。

といっても、本当に大したことではなく、私は日本で職業訓練が冷遇されているのは、稲葉さんのようにその対象が学校・企業というルートからこぼれ落ちる人を対象にしていると考えるのではなく、トレードおよびプロフェッショナリズムが定着していないからだと考えている。というか、江戸時代にはトレードに近いものがあったのだが、明治にはこれを軒並み毀してしまった。学校システムはその後の秩序を新たに構築するものである。調べてみないと何とも言えないが、西洋の職業訓練は一応、過去からの連続性を少なくとも精神的には保っているような気がする(根拠なし)。たとえば、ドイツのマイスターへの敬意はそういうことなしには説明できない。日本の場合、これまた、根拠なく言うが、職人は職人でも最高位の名人になると、何でも極めて神様になってしまう。分かりやすい極端な例を出せば中島敦の『名人伝』。弓の名人だったのに極めすぎて弓が何の道具か忘れちゃう。こうなったら、どの職種かはあんまり問題ではなくなる。それはそれでいい。ただ、この極端な名人志向には、かつて百目鬼恭三郎という朝日新聞にいた鬼のような書評家が、一芸で何かを成し遂げた人に森羅万象なんでも意見を求めるのは日本人の悪い癖と一刀両断していた(ちなみに、このとき切られていたのは数学の広中先生の教育論だった気がする)。そういう側面もあることも否定できない。

それにしても専門職への侮蔑はひどい。「さよなら、図書館。アタシは幸せだったかもしれません。」を涙なしには読めなかった。図書館司書だけではない。文書館を大事にしないのも許せない。専門職があろうことか偏狭な人たちと理解されるとはどういうことか。非正規でしか処遇されないとはどういうことか。社会教育に道徳はいらないから、図書館、博物館、文書館の啓蒙活動をやってくれ。おそらく介護職についても同じことが言えるだろう。

職業訓練は基本的にトレードレベルでのプロ(少なくともエントリ・レベル)を作り出す役割を担っている。しかし、その先のトレード自体が尊敬されていなければ、出口に明るい未来はない。この点ではかつての熟練工はよかった。製造業の熟練工は工場労働者として馬鹿にする人、卑下する人などはいたとしても、日本経済を支えていることを否定する人はいなかった。歴史的にではなく、現在生きる我々の課題としての職業訓練は、きっと働くということの意義さえも問い直さざるを得ない問題を内包している。佐々木先生が「僕達の職業訓練」と語ることが出来たのは、そういう観点から考えてもきわめて味わい深いことのように思われるのである。
スポンサーサイト
コメント
コメントを投稿
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可
 
トラックバック
この記事へのトラックバック