前半は研究会全体の雰囲気と参加者を知ることに終始したといってよい。休憩時間に仙台からいらした高橋さんに声をかけていただいた。彼もまた、後半、地方の現場で実践をしている立場から重要な一人になるのだが、何人か地方から駆け付けてくださった中から私が彼をメインに振ったのは、ただ名前と顔とやっている事がその場で一致したという理由による(ただ、高橋さんの登場は次回になりました)。といっても、私が覚えられるのは1日、2、3人だが。後半は私がほとんど仕切った。班長の命令というのは半分くらいは冗談だが、私がそうせざるを得なかった理由をここで少しずつ明らかにしたい。

後半は我々が寄せた批評の説明をせよということだったので、数人が話をした。申し訳ないが、このときは私は自分で何を書いたかを思い出すため、自分の文章を読んでいて、誰が何を喋ったか覚えていない。私の提出した論点は、1初等教育は児童労働からの解放という点で強制教育であり、その必要性を否定するのは難しい。2キリスト教を背景にした陶冶論をどう理解するか。3熟練工を中心に論を構成していいのか、という問題提起である。

最初に反応してくださったのは佐々木先生で、その趣旨は私の理解した限りでは以下のようなものだった。一般陶冶論がキリスト教の文脈で触れられているかどうかは分らないが、むしろ職業陶冶論では触れられている。一般陶冶の方でキリスト教が一見、出てこないように見えるのは、彼らにとってそれが自明のことでわざわざ断るまでもなく、それを論じているという可能性もある。いずれにせよそれを確認するには膨大な考証(という言葉は使わなかったが)が必要になる。これに対する私の答えは、今から思い返すとよくもまぁこんな失礼なことを言ったと思うのだが、「キリスト教が背景にあってそれにどういう意味があったのか歴史的に検証することは学問としてはとても意味のあることだ。しかし、キリスト教というバックグラウンドがないこの日本で職業訓練論の意義を訴えていくためには別建ての論理が必要であろう」というようなことであったと思われる。

なんか再現するのは無理っぽいので、ここからは対立した議論自体を復元しよう。口火となったのは萬年先生から実務家としての立場からの発言を求められた石井潔氏である。企業での20年以上の教育経験があるという。石井さんの議論の趣旨は、そもそも日本の経済構造が変わって、職人的熟練工が働ける場所は減ってきているので、そういうところは今では稀有である、それなのに職人論ばかりをやるのはおかしい、今求められているのはホワイトカラーを育てることで、そこで重要なことはコミュニケーション能力である、といった塩梅。そこでいくつかの基準をあることに触れられ、例として目を見て話すということを出された。

これに対し、私は「営業の仕事なんか飛び込みでやるというイメージが一方であるんですが、そういうものは具体的に伝達可能な形でプログラム化できるんでしょうか」と質問した。答えは「出来る」ということで、具体的なお話をして下さったが、このやりとりは最初から内容よりも議論のレベルを具体的事例に近づけるための布石だったので、私が欲しかった答えは「出来る」という点に尽きていた。十二分に成功である。

ここからコミュニケーション能力の話がいろいろと出るのだが、新井吾朗さんが実践者の立場からいろいろと述べられた。つづめて言えば、コミュニケーション能力というのも、切り詰めていけば、プログラム化できるのだというのである。そこで展開されたコミュニケーション論の話も面白いが、私が紹介すると不正確になる可能性があるので、そこはあきらめておく。ぜひ、新井さんの指導案論を読んでおいてほしい。

お二人の意見をまとめて、私が「コミュニケーション能力が存在しないという学者は要するに物事を知らないだけなんだということが分かりました」と感想を述べたら、班長がそういうことを言っているのは本田由紀さんで、そういえばなんか、批判しながらも擁護してたな。ちなみに、私は別に本田さんを意図して言ったわけではない。半分は本音で、もう半分はリップサービスである。ところが、である。ここから里見先生がまた、本質的に重要な問題提起をされたのである。

里見先生はコミュニケーション能力がプログラム化される得るのかという点に疑問を挟まれ、自分は大きい方針は決めても、その細かい内容まで決めない、そんなことは学生(たち)と直接、交流するなかで作られていくもので、それをコントロールしようと思っても出来ないと思う、ということを述べられた。この点において実は非常に演劇的なのである。脚本さえあれば全部、同じ芝居になるのか、というのと同じことだからである。そう、研究会もライブなんです(Ustreamにすればいいじゃん、という説はあるけど)。ここで私はわざと図式的に整理した。訓練の中で到達目標を設定して身につけられる能力と、そういうのを超えて身につける能力が二種類存在するということですね、と。ただ、このときに前者が結果を重視し、後者がプロセスを重視するとしたため、この点で新井さんに反論された。

実は新井さんの議論は非常に重要で、要するにコミュニケーション能力を作るといっても、プロセスを重視しないわけではなくて、そこには自由度を持たせているんだ、という話である。ここはぜひ誤解ないようにされたいと思う。私はこれを聞いていて、新井さんが考えている方法は原理的にはハーバードのビジネススクールのケース・スタディと同じだなと感じていた。あれは歴史的には法学部の判例研究をモデルに1950年代に作られたものだが・・・などと書いていると、いつまでも終わらないので、省略。

それにしても、新井さんが「身につけてほしい能力」が明確に提示されれば、それを身につけさせるプログラムを必ず作ってみせると断言されたときには正直、心の底から感動した。その覚悟は職業訓練を背負って立つものの気迫を感じさせるに十分なものであった。だが、私は二つの点で反論した。

第一に、学校というのはそれ自体が学びをするシステムでたとえば友達や教師などと触れ合うことで社会性を学ぶなどという科目の成績に入ってこない部分で身につけるものがある。能力として顕在化されたものの効用のみを訴えることは、職業訓練において、たとえば田中萬年先生がいつもあげられる、普通教育では適応できなかったのに皆勤で通した子の例のように、貴重なプラスアルファを零れ落してしまうことになる。だから、科目以外にどういうメリットがあるのか、私にはわからないけれども、それはぜひ訴えていってほしい。

第二に、設定目標が欲しいというが、設定目標を明確化するプロセスから職業訓練は積極的に関わるべきだ、といった。つまり、コミュニケーション能力のところで、石井さんがソフトウェアの話を出されていたので、それに乗っかったのだが、ソフトウェア開発では顧客の要求の確定をするためにある種のコンサルのような仕事が必要になる、と。ここから話はじゃあ、実際のニーズって何だという話に展開していくのだが、その前にここまでの話を整理しよう。

読んでいて気付かれたと思うが、ここでもっとも対立しているのは新井さんと里見先生である。そして、萬年先生の非教育の立場は里見先生に近い。新井さんははっきりと萬年先生の議論への反論も述べられていた(というか、彼が最初に発した言葉がその点であった)。萬年先生もまず、彼を説得しなければならない、ということを非常に意識されているようであった。能力は作れると断言した石井さんの立場は実は論理的には新井さんに近いのだが、その内容を聞いていると、里見先生と新井さんの中間に位置することが分かる。プログラムの基準自体がかなりの部分、経験的に作られるという側面があるからである。二つの対立まではわかりやすかったと思うが、この鼎立状態はどれくらい意識されていたであろうか。

微妙に話の順番とか記憶違いでずれている可能性があります。そして、班長の予言どおり、第三部に続きます、と言いたいところだが、モチベーションが下がってきたので、どうなるか不明。

追記:すみません。前の記事の新井さんのお名前と今回の石井潔さんのお名前がそれぞれ間違っていました。訂正させていただきます。ありがとうございます、萬年先生。
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