皆さま、お久しぶりです。いろいろと公募関係の書類を書いていたり、業務の進め方を考えていたり、研究会に出ていたり、バタバタしつつ、twitterなんてものを始めちゃったら、ついにブログまで書かなくなっちゃった。あ、でも、来月は『社会政策』に論文が出ますから、まったく書いてないわけじゃないので、そこんとこはよろしくお願いします。また、近くになったら宣伝します。

さて、例の「非教育の論理懇親会」あたりから、というか、本当のことを言うと、博論の一部で藤本隆宏先生と小池先生の議論を使いながら論じてたりもするんですが、技能についての話を考える機会がバーっとありました。この前の理論科研の矢野先生へのコメントで書いた「人間力戦略研究会ってひょっとしたらいいんじゃないか」については、あっという間に皆から詰めて仕舞われた次第でございます。なんというか、こちらも詰めて考えられていないし、あんなにみんなが「人間力」に迷惑しているとは知らなかったし。ここ数日は森班長殿と戸高七奈さんとツイートでやりとりしていて、きっと行きつく先は同じであろうと、思っています。

ざっくりと私の個人的印象ですが、学校知だとか(そんなもん社会科学の概念としてはどうしようもなくて、ツイッターはお遊びですから別に構わない)そのあたりで考えようとしていることって、意外と私たち労働(あるいは技能形成)の領域とも近いんじゃないかなと思ったりしています。それは言い換えれば、学校で身につけることだって、社会に出たって役に立つということなんです。非常に単純にいえば、読み書き算盤ですね。ここまで否定する人はいない。ただ、学校知で語りたいことはもっと広いでしょう。

私が技能形成論で考えたいたのは、形式知と非形式知をまずは区別しよう。そして、非形式知であっても、完全にブラックボックスじゃなくて、なんとなく現場の人は一挙手一投足のアルゴリズムまでは解析できなくとも、ああやればこうなる、くらいの緩い管理は出来るし、現にやってるだろう、ということでした。こういう場合、私は論理仮説的に考えていくから、一方の極に完全に形式化された知を置いて、もう一方の極に形式化されることは絶対にない知を置くんですね。そうそして、すべての知はこの間にある。もちろん、本当はその間の判定こそが知りたいところであり、分類が難しいわけです。

たとえば、ここ数日、試験知が役に立つか、というようなことを議論していたわけです。森さんと私はたぶん、役立つと思ってる。私なんかは非常に単純に天野郁夫先生の試験化した社会を想定して、学校出たって試験が続く社会になってんだから、学校で受けた試験のトレーニング(あるいは自分で身に付けたスキル)って役立つでしょ、という論理なんです。じゃ、ここでの試験知ってなんですか、ということになると分からない。高校の国語でやった漢字のテストが採用試験の常識問題で出たとしたら、これは役立ってるといえる(笑)。非常に即物的な形式知ね。

でも、矢野先生の議論になると、もうちょっと汎用性がある話になる。「学ぶ習慣」みたいなものは学校、出ても役立つんだよ、と。習慣?ハビット?ハビトゥス?ハビトゥス、いただきました、みたいな感じですかね。すみません、ネタです。これはもうある意味では形式知を超えている。前に濱口先生が矢野先生に専門教育の意義を言う時に「いやなんでもいいんです、じゃそれぞれの専門分野のレーゾンデートルを示しにくいから、まずいんじゃないの?(大意)」と突っ込まれてましたが、まさに形式知ではないんですね。強いて言えば、形式知そのものじゃなくて、それを獲得するプロセスを重視した議論になっている。何かの知識を獲得するプロセス、ということになってくると、非常にプリミティブなレベルで認知心理学、そしてそれをベースにした教育心理学とも領域が重なってくる。で、ごりごり押し込んでいくと、この領域での狭い意味で実証、ということになって、手も足も動かなくなるでしょう。

で、技能形成論では、と、考えてみると、また時間が掛かりそうだから、また近いうちに考えてみたいと思います。ということで、たぶん、続きます。
スポンサーサイト
コメント
コメントを投稿
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可
 
トラックバック
この記事へのトラックバック