濱口先生から前のエントリを紹介していただいたのですが、後半の論旨がやや誤解が入っているというか、意図的にそうされているのかな、という感じがして、真意がどうも掴めない。

私はあえて言えば、偏差値が低い大学でも優秀な子はそれなりに就職を見つけていると思うので、その点はあまり心配していません。そりゃ名の通った一流大企業には行けないかもしれませんが(行く子もいますよ)、別にいいじゃないですか、それでも立派に働いて生活が成り立てば。偏差値が低くても、ちゃんと就職活動をやっている子の内定率がいい大学ってありますよ。宣伝していいかどうか聞いてないので、あえて名前も数値も出しませんが。そういう意味ではちゃんと本人を見てくれなんて言いません。ちゃんと会社によってはある程度、評価してもらえていると思うので。

濱口先生の言っていることは今回はちょっと違和感を覚えます。理論的に考えれば、学校で習った内容がすべて職業的意義で説明できるものであるとき、学校のカリキュラムの質とその習得度を順番に並べればよい、ということでしょう。それにプラスして歴史的価値みたいなもので差が不可避的につく。そうなったら、それこそ下の学校の学生には逆転の余地なんかないじゃないですか。それに学校で完璧な職業的意義のある教育(訓練)を施しさえすれば、就職できない人がいなくなるというんでしょうか。それとも就職できなかったら「労働市場の需給の問題であることがはっきりしている。君の人間力(あるいは職務能力)が問題だったわけじゃないんだ」とでもいうんですか。それくらいなら、今でも言えそうですよ。基本的にマクロで見れば、人的資源論より景気循環と労働市場の需給の問題だと思いますから。私は経済政策を提言するほど実情に詳しくありませんが、景気回復の方がクリティカルだと考えてます。実際、リーマンショック前は内定率が回復の兆しを見せていたし、そのあとは悪くなってるじゃないですか。それにマージナル大学とレッテルを貼られた学校の、実はマージナルではない学生が門前払いをみんな食らってたら、内定率がゼロじゃないと平仄が合いません。

さて、瑣末な話ですが、一応説明しておきましょう。私が本田由紀さんをきつく批判しているのは、職務給と職能資格給を対立的に捉えて議論している点です。職能資格給は本給と連動して成立しているんだから、彼女の論旨を展開するためには賃金の決め方において査定で決まる基本給こそ批判しなきゃならない。この査定方式を周知の通り、小池和男先生は高く評価されていますし、同じような認識の方も少なくない。ですが、当然、昔から制度自体の批判者はいて、少なくともかつて小池先生の論敵だった左翼系の賃金研究者はきちんとこの点を指摘してきたわけです。それは最低限、踏まえるべきではないかということなのです。労働問題の専門家でないのだから仕方ない、と当初は思っていましたが、本田さんが頻繁に引いている乾先生の著書ではこの点が正確に指摘されていますから、それも通用しませんね。基本給がクリティカルだということが分からない人に「日本的雇用システム」論について理解も正当な意味での批判もできるわけないじゃないですか。

たとえば、彼女が主張している「柔軟な専門性」というのは、正に日本的雇用システムの中でこそ実現してきた仕組みです。要するに、メインの仕事があって、ある程度、それが出来るようになった時点で、関連する隣接業務を経験させると、そのメインの仕事(の理解)にもよい影響があるという話でしょう。1980年代に日本の製造業のパフォーマンスを見て、それはいいと海外でも認識されるようになって、Job Broadeningがいいんだということがアメリカの人事労務管理系の論文なんかでも指摘されるようになったと思いますが、あえて分かりやすくいえば、彼らは職務給で処遇する世界が障害になっていて、それをどう乗り越えようかと工夫しているわけです。柔軟な専門性というのは、全然逆の文脈で出てくるべき話なんですよ。

こういう細かい話とは別に、私は「職業的意義」論はエスタブリッシュされた専門職以外では幻想だと考えているので、深いレベルで濱口先生が主張したい方向(?)と対立があるのは間違いありません。そのことは認めておいた方が旗色鮮明になって便利なのかな。ただ、私の理解では濱口先生は現実がそんなに劇的に変わらないことを織り込み済みで、それでも多少ベクトルを変えるために極端なことを主張する必要があるという極めてブラグマティックな立場なのだと思っています。

とはいえ、基本的には学説としてはどちらの立場でもいいわけですよ。ただ、本田由紀さんに限って言えば、まず前提的な認識レベルのところが怪しいから、上で指摘したようなベクトルの正反対な話を同時に主張していて、何を言ってるんだかわけが分からないことになっている。私にはコアがどこかなんてとてもじゃないけど読み取れないし、読み取ろうという気もないです。真剣に検討すべきレベルに達していないというのが私の見解です。言い換えれば、職務を企業を超えた形で確立させようという立場も学問的には当然あり得ますが、それならそれでもう少し理論構成をしっかりしないと、同じ土俵に立って議論なんて出来ないのです。

もし、教育の分野でこういう問題に関心があって勉強したい人がいたら、私とは全く別の立場ですが、乾彰夫先生の『日本の教育と企業社会』を勧めます。濃縮された文章なのですぐに理解するのは難しいですが、ノートを取って何度も繰り返し読めば、少なくとも一つの一貫した視座は得られます。この文脈では、一応、振られたのであえてもう一回書きますが、本田由紀さんの『教育の職業的意義』は勧められません。本当に勉強したい方は乾先生の本を読んでください。ただ、教育分野と企業分野の接続は森直人さんが最近、興味を持っているようですが、私の知る限りまだ成功しているというわけにはいきません。乾先生もこの接続部分は弱いと思います。ただ、この場合の「弱い」の表現には学問的に批判して、いろんな人が問題を共有して克服して行く価値があるという意味を込めています。

もうひとつ、おまけに本田さんを批判すべき点をあげるとするならば、森さんが以前、書かれたエントリに尽きます(ただし、長文注意!)。私とは違って森さんは教育社会学の中から真面目に検討されています。森さんの本田さん批判を私なりにデフォルメすると、職業的意義が大事だという以上、その模範を示してみよ。少なくともオレはオレなりにそういうのが大事だと思ってるから、これだけ工夫してやってるぜ。それが出来ないのは教育者としてどうなのか?ということです(注:森さんはこんなに品の悪い言い方はなさいませんので、リンク先を読んでください)。自分も同じ立場にあるのに、他人にはそれをやってないじゃないかと批判して、自分も出来なくて苦しいじゃ通らないでしょ。ちなみに、森さんのも教職というエスタブリッシュされた専門職での話だから出来たんでしょうというのが私の理解です。

ちなみに、私は職業訓練は重要だと思っているので、何度も佐々木輝雄・田中萬年コンビを取り上げています。関連エントリをあげておきます。

田中萬年先生の非教育の論理について
ちなみに、ここでは先に引いた森さんの議論のレトリックも解説しています。

佐々木輝雄論についてはこちら
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