柏野論文はベヴァリッジの思想を概観するのにとても勉強になった。と同時に、私はベヴァリッジが主張している「自由」がおよそ市民社会における自由と関係ないことを確信した。ここまで来るのに、意外と時間が掛かった。このことを確認するためには、ハイエクとの比較が役に立つだろう。ただし、断っておくが、私は別にハイエキアンではないし、彼の言うことに全部、賛成しているわけでもない。もうちょっと正確に言うと、全部理解しているわけではない、というところかもしれない。

まず、ハイエクの言う自由は政府による権力の制限である。個人への干渉を出来るだけ最低限のものにとどめる、ということである。ハイエクはいわゆる市場主義者ではない。彼が市場経済を尊重するのは、それが自生的秩序を体現するものであるからである。これに比べると、ベヴァリッジの自由は、窮乏からの自由、より精確に訳すならば、窮乏からの解放であり、もうちょっと範囲を広げるならば、5つの悪(窮乏・疾病・無知・狭隘・無為)からの解放である。ハイエクにおいては自由は既に所持しているものであって、彼はそれに干渉する力を制限する立場にあり、ベヴァリッジにおいてはある種の欠落を埋め合わせることで獲得するものである。

ハイエクの思想は非常に丁寧に近代的にコーディングされているけれども、実際にはかなり神学的な発想を踏襲している部分がある。要するに、怪力乱神を語らず、という立場であろう。私見によれば、ハイエク思想の重要なポイントは、人間の知性には限界があり、しかし、その人智の及ばないところで、秩序は(法という形で)成立し得るという信頼を寄せている点だろう。実はこうした立場からより掘り下げて理解するために、自然法思想をきちんと把握しなければならないと常々、考えてきた。そこでちょうどよい論文がまたWEB上で読めた。太子堂正弥「ハイエクにおける自然と自然法の概念」である。これだよ、ずっと読みたかった論文は。

ベヴァリッジの民主制実現の方法が設計主義であることは明らかであるように思われる。もっともハイエクの名著『隷従への道』はもともとベヴァリッジに宛てて書かれる予定の原稿だったし、そういう意味では二人の立場が対蹠的なのはある意味当然といえるかもしれない。ハイエクは最低生活保障さえも社会保険を使わずに達成できたかもしれないと述べる(「自由主義とは何か」『市場・知識・自由』244ページ)。この箇所でさらに重要なのは、ハイエクが社会保険を評して、もっとも効率的にダイレクトに効果を得ようと試みたために、としている点である。この限りで言えば、ハイエクは市場がもっとも効率的であるが故に支持しているのではなく、自由を体現する制度として支持しているのである。多少の(時間的な)効率を犠牲にしても、自由を犠牲にすることを嫌っているのだ。端的に表せば、市場≠効率主義≒自由放任主義だろうか。

福祉国家が福祉を阻害しているという批判は管見の限り、ティトマスの著作など既に1960年代には見られたことだが、その原因の一つは、ベヴァリッジのなかにある、最低保障を受ける人に対してスティグマを与えよ、という構想にあるのではないだろうか。日本においては生活保護を受け取ることを潔しとしない人々たちの要求によって、一時的に貸与する制度が発達したのは周知の通りだが、そうした考え方というのは、日本の場合、社会から国家へ要求が上がってきたのに対し、ベヴァリッジのように、国家の制度設計によって強制すべきものなのだろうか。

柏野論文のもう一人の主役、T.H.マーシャルについては内容的にはほとんど取り上げる必要もないように思う。マーシャルも社会福祉業界では声価の高い人で、この分野では世界的にインフルエンシャルな人だとは思うのだが、私が読んだ限りでは、シチズンシップの議論はきわめて不十分で、かつ疑問符を付けたい箇所で溢れている。そもそも、メーンの「身分から契約へ」という誰でも知っている命題は本当に前近代から近代への移行を適切に表しているのだろうか。私は森先生に指導を受けたので、完全に関係説の立場であって、契約説は採らない。たとえば、被用者と雇用者は雇用契約によって初めて雇用関係を作るのではなく、社会的に作られてきた既に存在する雇用関係の中に、雇用契約を媒介として入っていくと考える。関係説の立場から見ると、身分というのは決定的に大事な概念で、この点をキー概念として使い、さらに、シチズンシップという形で資格性の問題を扱っているので、もっと面白い議論が読めることを期待していたのだが・・・。そういう議論を立てる人はいるだろうな、という程度のものでがっかりした。

マーシャルの声価を決定的にした「市民資格と社会階級」についての疑問点を述べると、まず、大陸からの影響がどのようにあったのかという点が明らかではない。マーシャルのロジックを見ると、市民資格を進化論的に把握し、イギリス社会に内在的展開を明かすかのごとき按配であり、かつその試みがもし精確に実現できていたならば、ハイエクの方法論と全く同一であろうけれども、実際はフランス革命などの外国からの影響を捨象しているだけに過ぎない。これは社会科学者としての実証的な甘さである。次に、マーシャルは明言していないが、イギリスに限定した文脈から考えると、市民資格はほぼ国民資格とイコールと捉えられているのであろう(まさか地球市民ではあるまい)。もし、この仮説が正しければ、部分社会における資格よりも国民資格が上位に来ることを意味している。すなわち、マーシャルの言うことは公的義務というより国家からの強制である。social policyが、貧困の根絶、福祉の増大、平等の追求程度のことであれば、戦前日本で広範に流布していた階級緩和説で十分に足りる。もっとも福祉の増大というのはなんだかよく分からない。

T.H.マーシャルはみんな読んでいると誰かに聞いたことがあった気がするので、今度、誰かにとっくりと何が面白い論点なのか教えてもらうことにしよう。
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