東日本大震災が起こり、早速、阪神淡路大震災の教訓を活かす人たちが大勢、現れた。とても心強いことである。私はもう少し歴史的な視点に立って、この問題を考えたいと思う。

まず、参照基準として考えたいのは関東大震災である。関東大震災のときにはやはり貧富の格差が拡がり、現在と似ている状態が出来た。ただし、前提条件が若干異なる。1923年というのはやはり不況の後であったが、それは第一次大戦による好景気の反動であった。この大戦好景気によっていわゆる成金が生まれるなど、社会的な不公平感が高まった。それを反映して労働運動や農民運動も含めた社会運動が一気に盛り上がった。もっとも不幸であったのは、労働運動がしばしば労働者対資本家の対立と捉えられた点であり、これは実は労使協調といわれる総同盟も1920年前後は同じであった。それが対立を繰り返す中で徐々にやはり協調が大事であると舵を戻したのである。なぜ、この対立が不幸であったのかといえば、相手を倒せばよいという思想を生んだからである。実は、関東大震災後の復興プランは後藤新平を中心に練り上げられ、安田善次郎をスポンサーにして実現するはずであった。ところが、安田は金持ちの代表として暗殺され、計画は潰えたのである。だが、現代の日本ではもうかつてのような青年客気にはやった暗殺は終焉している。喜ぶべきことである。

2011年の日本は長期不況を経験した後である。経済はリーマンショック前に少し良くなりかけていたが、社会全体が経済の良さを体感する前に再び悪くなってしまったから、ずっと不況のような気分である。だから、格差といったとき、一般のイメージにあったのは1億総中流からこぼれ落ちた人が出てきたということだった。もちろん、そういう人もいたが、実際には「隠された貧困」がスポットライトを浴びたという面もあったと思う。2000年代には、私はまったく支持しないが、中高年が既得権益を得ているから若者が割を食っているという説が実しやかに語られた。この説はその当否を別にしてプラスの効果ももたらした。まず、若者バッシングを和らげ、そして堀江さんのような経済的成功者への呪詛を拡散させたことである。ちなみに、私は堀江さんの支持者でも何でもないし、彼の原理的市場主義にも反対だが、地震が起きてからの彼の寄付を募る行動は頼もしいし、素直に尊敬している。自分自身でレッテルを貼っていても人は簡単に割り切れるものではないと思う。

この地震が起こった後、ツイッターを中心とした連帯はすごい。市井の人の声が市井の人に届くだけじゃなく、猪瀬東京都副知事など具体的に動く力のある人の元にも届いて、現実を動かしている。東北を中心とした被災地を救おうという点でいろいろな結束を見せているのは力強い。それだけじゃなく、学者は学者で自分を持てる知恵を何とか提供したいとして、何かしらのつぶやきをする。そうやって、皆が結集しようとしていることが私にはすごいことのように思える。

一方でこの一体感に恐怖を感じている人もいる。自衛隊や東電の現場の人を賛美する声や日本人の美徳を顕彰する向きである。大いなる美質の存在を確認できたこと、それに救われたこと、私も決して生涯忘れはしまいが、そこで思考停止したら、危ういこともまた、否定できない。普通の人の美質は瞬間的であり、それが持続するものもあるが、変わってしまうものもある。忘れてはならないだろう。私がこの首都圏で起きている買い占め騒動は群集心理の表れであり、今こそこれを分析する社会学クラスタの出番ではないかとつぶやいたところ、澤田先生からこれが自粛と一体ではないかという意見が述べられた。澤田さんは全体主義への危惧をその前に述べており、直観的に先にあげた、この一体感への恐怖と同じことを感じておられたのだと思う。

買占め行動そのものはガソリンについては急遽、何とかすべき問題だが、幸い河野太郎氏のブログによれば、まもなく何とかなるとのことなので、終焉するだろう。食料についても原発の問題があるので、難しいが、緩やかに収束していくと思われる。被災地の方への支援のマイナスになったことは無念だが、関東地方も被害が相対的に小さかったとはいえ被災したのだから、これで社会的不安がある程度、吸収されるならば、社会的コストは安く済んでいるのかもしれないとさえ考えている。

澤田さんへの答えとして、この一体感は戦時期のそれというよりも、復興期や高度成長期のそれであるという風にコメントした。もちろん、戦時体制に突入するのではないかという恐怖を緩和させるためにいったものの、しかし、これとて決して楽観してよいという意味ではない。高度成長を支えた経済計画、政治的条件、技術的条件など客観的なことはこれから分析できるだろうし、既に蓄積もある。ただ、私が注目したいのは一つの時代精神である。高度成長期を支えてきた時代精神については間宏先生の『経済大国を作り上げた思想』がもっとも分かりやすい。間先生は詳細に分類されているが、大雑把に言うと、高度成長までを射程に入れた戦後の復興を支えた思いには戦争で亡くなった若者への贖罪意識が少なからずあった。そういう意味では必ずしも経済成長を支えた世代にとって、その成功が救いにはならなかったのではないかと私は考えている。ここで危惧されるのは今回の震災を通じて育まれる思いが、ありふれた日常を改めて感謝する縁(よすが)になるのはよいが、心理クラスタの方たちがすぐに指摘されたように、生き残った罪悪感、あるいは何もできない無力感に閉塞してしまうのは避けられないし、緩和策が必要であろう。これは直近だけではなく、中長期の問題である。自分自身の存在を許し、受け入れることから、新しい何かをともに作り上げることが大切だと思う。

何より嬉しいのはSNSを通じた一体感は、決して多様性を排除するものではないということだ。自粛、不謹慎を訴える人もいれば、それに反論する人もいる。そして、有名無名を問わずよい意見は広められ、悪い意見・誤った情報は修正される(されないものもある)。さらにかつてであれば孤独を覚悟しなければならなかったリーダーとなるべき有名人も、今は弱気を吐露すれば、声に出して支えてくれる無数の市井の人たちがいる。

2000年代は社会、経済、教育、政治、宗教その他、いろいろなシステムを見つめ直さなければならない時期に入っており、社会科学の学者たちはそれを意識して議論を積み重ねてきたように思う。ことは東日本の復興だけでは終わらないはずである。私たち学者が何か貢献できることは、過去の先達の叡智を受け継ぎつつ、今こうして動いている人々の息吹きに刺激を受けながら、暫定的な結論を出して、それを社会の中にある大いなる智慧によって練り上げていく土台を用意することではないかと考えている。そのために私にできることはボランティアに走ることではない。ただただ研鑽を重ねるしかないと思いを新たにしている。
スポンサーサイト
コメント
コメントを投稿
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可
 
トラックバック
この記事へのトラックバック