私は「日本における社会政策の概念について」(『社会政策』第2巻第2号、2010年12月)において、黎明期(1950年代から60年代)の社会福祉研究の検討を行った。そのときの私の問題意識は、1970年代後半から綜合社会政策としてソーシャル・ポリシーが輸入され、その流れの中でなし崩し的に社会政策の定義が読み替えられていったプロセスを総括しなければならない、というものだった。この中心になったのが結果的に武川正吾であるというのが私の認識である。だから、私は武川さんには厳しい。私も大河内一男流の資本制社会(賃労働関係と読み替えてもよい)を軸とする社会政策論を相対化する必要があるという認識は共有しているのだが、それを乗り越えていくためにはいくつかの作業が必要であると考えていた。

第一に、大河内理論のメリットとデメリットをきちんと確認すること。第二に、社会政策の英訳はソーシャル・リフォームであったが、イギリスではソーシャル・リフォームでは包含しえない概念として、ソーシャル・ポリシーが登場するという歴史的経緯があり、その必然性を捉えた上で、ソーシャル・ポリシーと日本語の社会政策の関係を整理すること。第三に、ソーシャル・リフォームは一面、社会改良と訳されて来たこともあり、その分野を担ってきた社会福祉(旧社会事業)研究の蓄積を継承した上で、第二の課題を克服すること。

考えてみれば、学説史的な課題は山積みである。大河内一男は批判者の多い人で、服部英太郎、岸本英太郎、氏原正治郎、中西洋、武川正吾がその中でも研究史的に影響がある人であろうか(社会政策本質論争をめぐってもっと多くの人が存在したことは知っているが)。服部から中西まではマルクスという枠があって、その中の解釈論争であると私は理解していた。中西自身はそこからヘーゲルを通じて脱却しようとしたと言えるかもしれない。ただ、理論的なことを外せば、岸本が実証的に(といっても二次文献の勉強だが)イギリスの貧困研究に関心を持っていたことは、絶対的窮乏法則の当否を超えて、その問題関心の歴史的意義を検討する必要はあると思う。同様に玉井金五『防貧の創造』もそうした文脈で理解するならば、問題提起としての価値はあるかもしれない。ただ、1990年代前半での歴史的必然性は私には理解し難いし(学会賞の選考でも同じことが指摘されている)、理論的・方法論的には私は大河内を超えられなかったと理解している(正確には彼の枠組みを使っている)。そうした中で、私は高田保馬との論争がより本質的ではなかったかと考え、これを取り上げた。この論文の重要性を文書に残した人はあまり多くなくて、私の知る限り神代和欣ただ一人である。ただ、うろ覚えなのだが、神代先生は経済学的な文脈で、高田論文を取り上げていたので、私とは問題意識がずれる。これは非常に狭い社会政策研究の文脈での話である。

もう少し視野を広げて、社会福祉研究を見てみると、ここには別様の問題が存在する。非常に端的にいえば、社会福祉研究には、大河内一男を克服して欲しかったのだが、残念ながらそれに失敗した、ということである。初期の社会福祉研究は大河内理論をベースにした孝橋正一がある一方の軸であった。これは大河内理論のバリエーションだから、広義の大河内理論である。それに対して、全然別の立場から社会福祉研究を確立させようとしたのが竹内愛二であり、彼が目指した方向は、私から言わせれば、メアリー・リッチモンドがフレックスナーの反論に答えたのと同じである(ただ、福祉関係でリッチモンドを知らない人はいないのだが、この話をしてもほとんど皆ピンと来ない。これは私には大いなる謎である)。竹内愛二やリッチモンドがやろうとしたことは、簡単にいえば、ソーシャルワークの技能の体系化である。こうした技能論(社会福祉の業界では支援技術という)の系譜は今やいくところまで行きついている。そのレベルは管見の限り、相当に高い。だが、そこには科学=体系的知という伝統的な科学観があって、マルクス的な、あるいは大河内的な社会科学観と対話することは難しかった。その点で、岡村重夫は時間軸を入れて、両者を統合しようという妙手を思いついたのだが、1956年版の『社会福祉学総論』を読むと、社会福祉固有の発展段階を想定せず、資本主義の発展段階で問題解決しようとしたところで、やっぱり大河内理論を克服しきれなかったというべきであろう。その意味では、1956年『社会福祉学総論』とその改訂版1983年『社会福祉原論』の違いは決定的で、しかもあまり上手に整理できなかったと私は思っているのだが、このあたりの岡村重夫論を展開している研究をご存じの方がいらしたら、ぜひご教示願いたい。どうでもいいが、フレックスナーは昔、猪飼さんに教わった。

非常に狭い研究の世界だけで言うと、こんな感じになる。

ただ、戦後の社会福祉には別様の問題がある。一つは憲法の生存権(社会権)によってその正統性が保障されたため、実際の判決などに反論するという意味では反権力でありながら、憲法を不磨の大典とするという意味で御用学的になってしまった。不要に反権力になるもの考えものという気がしないでもないけど、まぁ、実践的にはそれでも構わない。ただ何れにせよ、社会権の存在そのものを問うという話はあまり出てこなかったのではないかとも思う。いや、実は歴史的に精査していくと、憲法以前の無差別平等原則などの占領政策の遺産が重要になる。で、本当は菅沼隆『被占領期社会福祉分析』が提出している議論をどう考えるかということになる。でも、菅沼さんの研究は1990年代、単著になったのも2005年だからなぁ。このことと密接に結びついているのは、アメリカの議論がベースにあり、したがって「個人」が根っこにあるということだ。私の印象論だが、どうもこの「個人」と「権利」思想が日本では媒介するものなしに結びつきやすい気がする。多分、それは自然法観(ないしコモンロー観)をすっ飛ばすからであろう。この課題を丁寧に敷衍していくと、T.H.マーシャルの諸研究とどのように向き合えばよいかという答えも出てくるように思う(論文では示唆的に書いたが、答えは用意してない)。そこまでは行けないので、外堀を埋める形で暫定的な材料としてバズワードと知りながら、私はあえて「社会」ということを言い出したのである。

ここまでの話を全部、丁寧にするだけでも一つの論文に収めるのは無茶なのだが、なお、論じきれなかった問題がある。それがタイトルの「地域」である。1990年代末から「地域」ということが再び注目を集めているが、1960年代から70年代初頭にかけて「地域福祉」ということが非常に注目を集めていく。そのときの「地域」はどうやらアメリカの「コミュニティ」と違う、何か固有のものがあるらしい、ということになった。ここに「社会」を付け加えれば「地域社会」とは何か?という話になるわけだ。何れにせよ、個人の社会関係に還元され得ない何かを意識している点で私の問題意識と近い。なお、「固有性」も謎のバズワードだが、「社会福祉の固有性」という表現とともによく使われる。

個人から地域へというのが、大きな戦後社会福祉研究史の流れなのかもしれない。ただ、そこから先へはなかなか進めなかったという印象を持っている。だが、今回の震災はそういう意味では、今までの枠組みを変えていく可能性を秘めていると思う。それは第一に関西地方には既に阪神大震災の経験を得て新しい意識を持った人たちが存在していること、第二に今回は太平洋側東北と北関東および千葉、長野栄村まで、広範囲にわたっていること、第三に東京も地震(およびその後の福島原発問題による節電の影響)を経験したこと、という新しい条件が揃っているからである。ここから東北各地の地域行政とそれを地域外の人がいかにサポートできるかということが、今後、地方分権が成功するか否かという点で、重要な岐路となっていると言えるだろう。地域外の人というとき、当然、私自身も含んでいて、他人事だとは思っていない。
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