『社会政策』第3巻第1号が昨日、送られてきた。なかなか興味深いテーマが並んでいたので、パラパラと眺めてみた。読んだ順にこれまたパラパラと感想を。

書評特集は二村先生の『労働は神聖なり、結合は勢力なり』。評者は小松隆二、榎一江、枡田大和彦、東條由紀彦。労働史研究者は必ず目を通さないといけない特集だろう。全体的にはあまり堅くなり過ぎない雑談的雰囲気も漂わせながら、内容的にはものすごい濃くなっている。

この特集の中で研究史的に一番大事なのは1990年代の二村・東條論争に一応の決着がついたことであろう。小野塚先生はこのコーディネートをしたことで研究史に名前を残すだろう。一応の決着というのは、事実認識のレベルで両者の見解がほとんど一致していて、解釈の力点がそれぞれ異なるということが部外者にも明らかになった、という意味である。随分、歩み寄ったなという印象だった。ここは二村先生の要約ですべてが語られている。

「東條氏と私の間で意見が相違するのは,同業組合一般を労働組合的な組織=労働者団結であったと考えるか否かであろう。私は,再三述べているように,日本の同業組合の多くは経営者的な親方と平職人とを包含しており,したがって労働組合的組織になりえなかったと考えている」

私は森建資先生から、イギリスの労働組合の前身たるクラフト・ユニオンも19世紀初頭には親方と平職人、あるいはあるときは親方だった人があるときは雇われの身になるという流動的な形だったと教わったので、にわかに二村先生の比較史的な観点に首肯できない。実はこの論点、森先生が小野塚クラフト起源論を土地制度の書評で批判したときの肝でもある。私の認識では小野塚先生は正面からこの問題に応えてないと思う。

話を日本に戻してみると、労働者団結を重視する点については東條説に魅力を感じるけど、これとは別に二村先生は「日本は指導者が組合を始めた点に特徴がある」と指摘されていて、こちらは労働者団結の話とは別個に考えるべき問題を含んでいると思う。私も日本の特徴はここにあると考えたことがあって、昔、石原俊時先生のゼミでその話をしたら「スウェーデンだってそうだよ。後進国はそうなんじゃない」と軽く言われて驚いたことがある。世界は広い。比較史研究をどんどん進めなきゃならない。

榎さんのコメントは友人としてはこういう素直なところを彼女の良さだと思うが、ちょっとリラックスしすぎじゃないかという気がしないでもない。それにしても経営資料を使って何が分かるという批判をするような人が21世紀にまだ実在するとは思いも寄らなかった。彼女の院生時代だから、もうそろそろそういう方は引退なさるだろう。基本的にはそういう人は1970年代に立花隆に特高の資料を使って共産党研究が出来るのかと批判した人と同じメンタリティであり、反批判が必要な人は『日本共産党の研究』を読んで立花さんが反批判している議論の形式を勉強すればいい。

そこのところは若き日の榎さんに同情するけど、それとは別に彼女の争議史研究への批判は不十分である。二村先生の争議史研究の提言の意義は、記録され難い日常の一面が非日常という争議に現れるので、そこから労働者の日常を捉え返していくというものだった。二村先生ご自身の主観的な意図としては資料の限界をブレークスルーする方法として考案されたのだが、実際に二村先生の御研究『足尾暴動の史的分析』を読めば分かるが、別に資料的な意味で争議にこだわる必要はなかった。もちろん、争議のときに直接的に分かる日常も存在する。たとえば、私自身富士紡の争議を研究した時に、新聞で労務管理者が40人出勤してくれれば操業できるという証言があって、これはたしかに争議のときにしか残されない日常の生産体制を理解する上での貴重な(しかし論文には組みこみにくい)証言だと思ったことがある。しかし、もっとも重要なことは、争議のような非日常的な場面で問題にされることを通じて、日常の中に埋め込まれている論点を研究者が見つける、そういう手がかりにするという点で意味があったように思う。足尾研究を読んでもらえば分かるが、二村先生は争議以外の資料もふんだんに使われている。だが、すべてそれは問題意識として争議に繋がっているのである。

二村先生の提言はもう少し抽象度を上げると、もっと汎用性が出てくる。具体的には変化する一時点(非日常)を捉えて、その変化していない状態(日常)を捉えると考えてみる。そうすると、この変化する一時点は別に争議でなくても何でもいい。争議よりも汎用性が高いのは技術革新であろう。この場合の技術革新はシュンペーターがいう広い意味のイノベーションと理解してもらえるといい。榎さん自身は多条機の導入という限定した意味での技術革新を扱った。だから、この次元で捉えれば、榎さんは二村先生の研究を応用しているともいえる。もっとも、「技術革新」は1950年代から日本では一大ブームであり、研究者の問題関心もそうした時代の趨勢に影響され、1960年代には技術革新で労働がどう変わるかというのはホット・イシューであった。そちらの方と結びつけて説明してもいい。てか、この話、前に榎さんにした気もするな。

小松先生の論文と二村先生の応答はとても重要だが、私自身にとってはほとんどが自明の事柄であったので、共感をもって読み飛ばした。有意の人には一読をお願いしたい。ただ一点だけ小松先生が出された論点の中で「個人的な評伝が組織全体を説明できるというのは、その組織の草創期だから出来ることである」という趣旨のものがあったのだが、これは改めて思い出すべき問題と感じた。このときに念頭にあったのは、このところ読んでいたハルゼーの『イギリス社会学の勃興と没落』であった。多分、この本は原書を含めて勉強する必要があるだろう。また、それをやったら取り上げたい。
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