今日からは気軽に書くようにして、更新頻度をあげていこう。

日本の貧困研究者のすごいところは、貧困は撲滅すべきだという価値判断を明確に持っていることだと思う。学生へのレポート課題(の一部)として紹介した阿部彩さんの『子どもの貧困』(岩波新書)を読んでいたときに、岩田(正美)先生の議論を引きながら、貧困の定義に許されざる水準、という価値判断を持っていることを明言していた。「子ども」を対象としたのも戦略的な理由があるとしっかり書いてある。今、流行の言葉で言えば、男前、である。個人的にはそういう姿勢はとても好きだが、研究姿勢としては何か大事なものを欠落させるのではないか、という疑いがどうも拭い去れない。

昔からよく知られているように、貧困に陥る原因はいくつもあって、簡単に図式化することは出来ない。ただ、私にはそうした多様性にはそれ自体固有な社会のエッセンスが込められている気がしてならないのだ。そのエッセンスを掴むことこそ、貧困研究の醍醐味ではないのだろうか?

なぜ、私がこんなことを言い出すかというと、前に岩田先生の研究を批判的に書いたところで、スティグマを問題と捉えるならば、そうした価値判断を生み出す貧困者の元いた社会(仮に産業社会と読んでおこう)が前提としている価値観にも何らかの原因があったと考えるべきだという意見を述べておいた。すなわち、貧困社会を考えることは産業社会を考えることでもある。貧困社会で福祉(あるいは幸せ)を考えることは、産業社会での福祉(幸せ)を考えることに繋がっていく。幸せなどという言葉を使うと、たちまち、科学的手法に馴染まないが、私自身は思想研究、価値研究こそが社会政策の一つの重要なテーマだと思っている。だからこそ、価値判断を持つことを覚悟するような貧困研究者には、さらに多様な価値判断を模索しながら、新たな平面を切り開いて欲しいと、より多くのことを期待してしまうのだ。
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