明日から広田理論科研の合宿で、かつ、そこで菅山先生の『「就社」社会の誕生』を取り上げ、かつ、私が第一報告者ということになっているのだが、どう話したもんか。とりあえず、大原に書いた書評はこれです(PDFです)。そこに書いたことだけを話すのでは、さすがに芸が足りないという気もするわけで。

濱口先生にも取り上げてもらいましたが、菅山先生の今回の本が戦後労働史の中で最高の一冊である、というのが私の意見なんですね。そのあたりのことからお話ししましょうか。

戦後の労働史のイメージを作った金字塔的な研究というのは多分、間宏と兵藤鞘Eに始まってます。ただ、これも厳密に言うと、いわゆる労問研の研究に負っている。たとえば、間宏さんの日本的経営論は意外なほど藤田若雄の講座派的な議論を踏襲しているし、兵藤先生もいわゆる氏原テーゼ(間接管理から直接管理へ)を中心に描いているといってもいい。実は「日本における労資関係の展開」は前提条件として書いている当時の日本経済史研究の紹介を抜いてしまうと、随分、薄くなってしまいます。ここだけの話ですが。

昔の人たちの関心は、今で言うところの内部労働市場、かつてであれば、企業内封鎖市場でした。この封建的な慣行がいったいなぜ存在するのか(デフォルメし過ぎですが)?存在自体は大前提だったんですね。そういう意味では、中西洋先生が言うように(社会政策・労働問題)の根幹になるような理論としての労働市場論はなかったけれども、労働市場への関心はもちろん、ありました。

そういう意味で意外なことに、その反対者は小池和男先生なんですね。ここら辺がある時期からの小池先生の議論しか知らない人には?でしょうか。小池先生の博士論文というか、本格的な最初のお仕事は『日本の賃金交渉』で、これは企業内封鎖市場と云っているけれども、日本は実質的な産別交渉をやっているじゃないか、ということを全繊同盟や私鉄労連、鉄鋼労連などで実証的に明らかにしたものです。断絶されて居ない相場があることを明らかにしたと言えます。

ただ、小池先生が多くの人に注目されるのは、1977年の『職場の労働組合と参加』における日米比較以降です。ここから小池先生が明らかにされていったメカニズムは、非常にデフォルメしていえば、日本の内部労働市場がいかに高い競争力を発揮しているか、ということです。あ、どうでもいいですが、実は有名な労問研の研究会を実働部隊として組織したのは社研助手時代の小池先生です(あの文献研究を出したグループです)。その初期の1950年代から先生は日本最先進国論を打っていたと伺っています。小池先生御自身の主張とそれが世間的に注目される時期には実はズレがあります。

ブルーカラーのホワイトカラー化というテーゼはブルーカラーの賃金カーブの各国比較から発見されたもので、日本の内部労働市場の充実度を示す指標とも言うべきものでした。もちろん、賃金論レベルでは、年功賃金が生活賃金なのか否かという議論が繰り返し行われてきたのですが、今日の話とは関係ないので割愛。菅山さんはこの議論を踏襲して、敷衍させようとしました。これは必然的にというか、キャリア分析に繋がってくんですね。それが一つは菅山さんの仕事であり、その後の市原先生の仕事になっていく。こういう形だと思います。ブルー、ホワイトの隣接領域から段々、ホワイトのキャリアに今は関心が移っていますね。それはそれで面白い領域になって来ます。でも、それはきっともう、社会政策・労働問題というより、経営史の新しい地平かもしれません。ちなみに、ホワイト研究は労働問題研究は遅れていました。先進的なのは、たとえば技術者研究とかはもともと経営史ですし、それから教育社会学では60年代から麻生先生のサラリーマン研究があります。天野先生の最初の論文?も技術者研究ですね。

で、労働市場という点では、実はそれほど研究が進んでいない。大きい流れは、藤林敬三先生の戦前期の繊維労働市場の研究があって、それを西川俊作先生が継がれています(これは『地域間労働移動と労働市場』となります)が、歴史研究としてはあんまり続いていない。そこで、ポンと90年代に『学校・職安と労働市場』という苅谷・菅沼・石田編の研究が出てくるわけです。で、その教育社会学的な背景も多少、勉強したけど、面倒なので割愛。それはもう一人の報告者に任せます。

近代の労働市場は需給がどうであれ組織化が進んで行くんですよ。景気が悪くて、労働供給が過剰な場合、失業対策として。景気が良くて、労働需要が過剰な場合、企業側がどんどん整備を求めて行きます。ま、人手が足りなくなると、そこに優先的に融通するのか、という話になる。戦争中はものすごい労働不足ですからね、どこに配置するのか、ということが重要になる。高度成長も大まかには同じです。で、戦争が始まる前は大まかに言えば失業対策として整備が進んで行ったわけです(注:ただし、高度成長期でも石炭のように産業の構造転換が起こると、失業対策的側面が強い事業も存在するわけですが)。何れにせよ、1920年前後というのは、そういう意味で一つの画期といっていいんじゃないでしょうか。

1910年代くらいまでの労働市場はやはり縁故中心です。これはもともと日本の雇用関係が本人よりも第三者と雇い主の関係が重要というところからスタートしていることから考えてもまぁ当然ですわな。で、近代がスタートしてもっとも組織的に労働者を募集したのは紡績です。途中までは女の子だけじゃなくてね。彼らは募集人を利用する。この募集人はもう人買いみたいな最低な人たちから、地元の名士とか、神様のごとき人格者まで、ピンキリです。でも、こういう地縁を軸に利用していたんですね。で、戦時中くらいになっても基本的に変わらない。多分、大正半ばから小学校が一つの機関として利用されるけれども、それは義務教育の普及(卒業)と関係あるのかもしれません。というのは、紡績は小学校中退者への教育も随分していたので、つまりはそういう人も雇っていました。1930年代に職安が入って、もちろん、書類は出さなきゃいけないし、そういう意味で職安の顔は立てるけど、実際は募集人が大事だったように私が見た富士紡の戦時期の資料からは推測しています(神奈川の公文書館で読めます)。6・3制以降は石田・村尾論文ね。このあたりの変化は時期も違うので見えてこない。

研究はどこからかスタートしなければならないので戦後からでもよかったのですが、今のところの見取り図だと、やっぱり戦後だけだと物足りない。その最初の頃のメカニズムは菅山さんの本でもよく分からないんですね。

書いていて気がついたけれども、私がもっている労働市場の変化の歴史像は多分、多くの人とは共有できていない・・・気がする。

まぁ、いいや、疲れたからこのへんでやめよう。あとはレジュメにする段階で考えるか。

残りはキーワード的に。
兵藤の内部化実証根拠=養成工制度の確立、企業内学校
 労働者の採用方、労働ボスから人事部(職工部)へ? 実証なし
 重工業ではどのように行われていたのか?
スポンサーサイト
コメント
コメントを投稿
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可
 
トラックバック
この記事へのトラックバック