週末に歴史班の研究会があり、その第一部が菅山さんの本の検討で、不肖私も報告させていただきました。第二部報告の森さんがA4で8枚、それから第三部報告の院生の堤さんが10枚、という、その数字を聞いたときは、こいつらおかしいすごい熱心だなぁと思いましたが、私のレジュメは1枚、それに先日の書評です。全体的には書評の解説です。後から分かりましたが、御両人ともそれだけ苅谷先生への愛情が深いということでした。

菅山先生ご本人と議論しましたが、私にとっては取り立てて驚くようなことはありませんでした。ただ、コミュニケーションを取れたことは大事だし、何より菅山さんも制度学派なんだなとしみじみ感じ入りはしましたが、それは感傷のようなものです。誰だかにもっと激しいバトルのような展開になると思っていたけれども意外だったと言われましたが、最近の私はそういうエネルギーの無駄遣いはしないのです(堕落したという評価は甘んじて受けましょう)。実際、労働史研究の知り合いというのは、今、コミュニティの人数も少ないですし、結構、共通了解が出来ていて、それぞれが深めあっている、というようなところでしょうか。新しい世代だと、私と同じなのは榎さんですけれども、彼女との間にもかなり共通了解が多いんですよ。特に企業内福祉の在り方とかね。その共通了解と云うのは、多分、イデオロギー対立がなくて、事実の探求と方法の共有が出来ているということでしょうかね。

私の疑問は、この本全体は大企業の雇用モデルを扱っているのに、職安の対象は中小企業がメインでしょ?それはちょっとずれてませんか、ということでした。菅山さんはその点を認めながら、一回出来あがった全国的な制度の枠組みの中に、大企業もやがて包摂されていくという意味で、大きい制度が大事だという趣旨を説明をされました。これがやり切りているかどうかは、意地悪く詮索すれば、出来ていないというか、これは書かれていない、想像力の世界です。で、想像力と書くと、悪口を書いていると早とちりをする方もいらっしゃるかもしれませんが、ここではプラスに受け止めています。全部実証(考証)だけで書くことは出来ない。その後ろに何らかのストーリーがないと、全体の軸は描けません。でも、こればっかりは推測するしかないから、最終的には本人に確認するしかないですね。それを聞いて、アイディアとしては説得的だったということです。だから、分からないことを確認したので、話はそこでおしまい。後はお互いの知っていることの事実確認です。私が持っていた労働市場の歴史のイメージと菅山先生と苅谷先生のお持ちのイメージはそんなにズレてなかったですね。

合宿では苅谷節を久しぶりにお伺いしましたが、とても楽しかったです。ただ、苅谷先生からブログに書くなよと言われているので(笑)、というか、よくよく考えると、その予防線は森さんのせいではないか、と思わなくもないですが、具体的なことは控えましょう。ただ、苅谷先生のお話しを伺いながら、この人は本当の政治を知っている人だなと感じ入りました。本当の政治というのは、お題目ではなく、実効を伴うという意味です。というか、苅谷先生はサントリーのときにお会いしてもいますが、著作を通じて私が想像していた背景のストーリーと、ご自身の口から発せられるストーリーの間にそんなに大きなズレはなかったです。

本当はね、苅谷先生より森さんの方が問題なんですよ。苅谷さんの『教育と平等』は一般的な二項対立を枕に持ってきて、徐々にその間のグレーゾーンを書き込んで行くという手の込んだもので、実はこの手法は前から変わらない。ところが、エピゴーネンたちは苅谷さんを一方の軸、たとえばカリフォルニアの実験を相対化しようとしている点を捉えて、個性化教育反対かのように受け止めて行く。森さんはそのエピゴーネンを批判しているわけだけれども、それは逆に森さん自身が個性化教育賛成の陣営に過ぎないことを明らかにしているだけであり、議論の構図としてはその二項対立を利用して、むしろ強化している。それは根幹のところで、苅谷先生から学問的に後退しています。ただ、政治的に、運動的に実践を鼓舞し、援けるという意味では正しいと思いますよ。仮想敵を作って、それを批判するという手法は、読んだ人を分かった気にさせやすいからね。まぁ、もっとも森さん自身はこれはあくまで派生的に出てきて、本当はもっと先のことを考えていることもはっきり伺えたので、森さんの研究は今後大いに期待できます。その研究が出た時、彼がなぜ歴史班の班長なのか、その本当の意味を誰もが知ることになるでしょう。皆さん、ぜひ注目してくださいね。

あとは二日目に塩崎さんに相当、失礼なことを聞いてしまいました。教育社会学は天野先生言うところの「辺境性」を持っていたというけれども、実は教育学も戦前はそうで、内容を見たら、今でも心理学(発達心理学)、政治学ないし哲学(自由と平等)、社会福祉などからの借りものが多く、独自のディシプリンといえるものが確立しているとは思えない。教育学はいつから何の根拠があってディシプリンがあるかのように振舞うのですか、と。この点については塩崎さんからのリプライよりも苅谷先生が示唆された教員養成をする東大の教育学部を作ったことの話が面白かった。なるほど、資格試験化すると、既得権益化して、学問が荒廃するんだなと、かなり勝手に解釈して納得してしまいました。まぁ、当り前ですわ。学問は正解が見つからないことに耐え、それを探求することですが、試験は分かったことにした正解を用意することにほかなりません。だから、正解を本当の正解だとしか理解できない人は・・・。

眠くなってきたので、今日はここでお開きです。一部、話を面白くするために、多少、盛りましたが、そのあたりは気にしないでください。
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