濱口さんの『日本の雇用と労働法』日経文庫を何度かざっと読みながら、何ともいいようのない違和感があったので、改めて『新しい労働社会』岩波新書と『労働法政策』ミネルヴァ書房を比較しつつ、水町先生の『労働法入門』や野川先生の『労働法』などを横目にみながら、改めて日本の雇用と労使関係ということを考えることにしましょう。結局、何が違和感を覚えるかといえば、私は徹頭徹尾チャート式が嫌い、テストもテスト勉強も嫌いということに行きつくことが分かりました。

私自身が労使関係を教えるときは、将来学生が働いて問題に直面したときに簡単に諦めずに、誰か(労政事務所だったり、それこそPOSSEさんだったり)に相談するという手段があるということ、これを理解してもらうところを最低水準と考えています。もちろん、それ以上になぜ組合が出現してきたのかとか、集団的労使関係はなぜ重要なのか、というような話もしますが、これを理解するには二重の意味で難しいんです。単純に、労使関係というのは個別にせよ集団にせよ「交渉」という意味での「政治」が重要なわけですが、私の独断と偏見で結論から言うと、「政治」的感覚が分かるかどうかは才能です。別にそれがあったからといって人生が幸せになるわけでもないし、むしろ苦悩が深まるように思うので、なくても特に気にする必要はありません。第二点、そうは言っても、経験からそういう感覚をある程度、身につけることは出来るのですが、産業社会に出ていない段階ではそういう経験が少ないでしょうから、学生にこの点を期待するのは難しいという事情もあります。加えて、同じ交渉の場面に立ちあわせていても、全然、そういう駆け引きに気付かない人もいるので、経験して政治的感覚を養うということ自体にそもそもある程度の素養がいるわけです。そんなわけで、私は体系を理解してもらうことよりも、片言隻句から何かを感じとってもらう(あるいは将来、思い出してくれる)方を重視しています。

濱口さんの狙いは、労働法的な世界と労使関係的な世界の両方の入り口を見せよう、そして、出来ればその両方に入っていくとこれからなおいい、ということを伝えることにあると思います。その試みは皆さんの好意的な反応をみると、まずまず成功しているように思います。でも、入門書としては危険な香りがします。その根幹は、現代日本のもろもろのシステムが大企業を中心として作られたことによって、今まではうまく回っていたけれども、これがうまく行かなくなってきたから、何とか変える仕組みを考えないといけない、という問題意識が背後に隠されているところでしょうかね。そういう点から言うと『新しい労働社会』『日本の雇用と労働法』に比べて、『労働法政策』は素直な本です。もっとも、冒頭の歴史認識はかなり野心的だけど、そう断ってありますから、問題なしです。

ああ、そういうことか、ということで気が付いたんですが、実は日本的雇用には何重にも捻じれがあるんです。それを皆さん整理していないから訳が分からないことになっている。日本と欧米を対比的に考えるのは、要するに、明治時代は先進欧米諸国(一等国!)との対比でしばしば自己認識していたから。EU専門にしている濱口さんが欧米だって一枚岩ではないのを知らないわけがないけれども、この本でも枠組みはこれを利用していますね。いずれにせよ、濱口さん以外でもいろんな様々な議論の底流には、日本対欧米、先進(≒近代)対後進(≒前近代、ないし半封建)という図式が根を張っています。最初は日本対欧米という図式に先進対後進をあてはめていたので、欧米=先進対日本=後進で、非常にシンプルだったのです。

もう一つは大企業と中小企業という対立軸もあります。これは古くは二重構造論と言われていました。この構造的な問題は日本資本主義論争前夜、すなわち1920年代にはもう議論されていました。ここからはイデオロギーが関わってくるんですが、高橋亀吉なんかは当時の日本の大企業、主として世界でも勝っていた紡績業が企業としても先進的であることはよく分かっていたし、実際にそう主張していたんです。ところが、それは少数派だった。その高橋でさえも日本の社会的な貧しさは農村と中小工業にあるということを言っていたんです。このときは、日本=後進、欧米=先進という図式からはむしろ、日本的特徴は中小工業およびそれを温存する二重構造に見ることがとても自然でした。

世は進み、高度成長を超えてオイルショックを世界の中でも比較的上手に乗り越えると、一気に日本企業が注目を浴びます。労働の分野で言えば、小池和男先生ですが、小池先生は1950年代から日本最先進国論者という少数派。これはむしろレイト・カマー・セオリーです(この名前は多分ドーアです)。この議論はざっくり言うと、後進国は先進国が実験的に経験してきた良い点、悪い点を後ろから学べるので、タイムラグの後、一気にトップランナーになれるという話です。ただし、後進であれば何でもいいわけじゃない。小池先生の議論が重要なのは、これは文化論じゃなくて、もっと普遍的に合理的に説明できるんだということです。リチャード・フリーマンという労使関係研究者が脱神話化(de-mistify)と小池先生の仕事を評価したのもそういう背景があったからです。何れにせよここらあたりになると既に図式的な理解をするには、話がややこしくなってくる。濱口さんがイデオロギーじゃないと言えるのは、こういう合理的説明作法を十二分に踏まえているからですよ。濱口さんの議論は、こういうことを表に出していないし、説明する必要もないんです。

ただ、それとは別に日本の労働法を見るときの対立軸は、民法の雇用契約原理(ジョブ契約)対日本の実態(メンバーシップ契約)です。この対立軸は理念対現実に置き換えることが出来るわけです。ここで一応注意しておくと、「現実」というワードそのものが図式的に理解できますよ、ということです。ここに気がつかなければ、メンバーシップ契約は現実そのものじゃなくて、理念型なんですよ、という意味がまったく理解できません。濱口さんと実際お会いして議論した時の印象ですが、濱口さんは実在論の立場じゃないんですね。哲学的に。だから、むしろそこは多かれ少なかれ、人間の議論は理念型的に成らざるを得ない、と考えているような気がします。それはそれで一理あるし、前提だから書かれていない。というか、書く必要もない。

それから、判例法理は大企業中心に作られていったという基本認識があります。その点は間違っていない。でも、それって中小企業のことをすっ飛ばしているよね、というところになる(これは『新しい労働社会』が出た時に少し議論したことがあります)。もちろん、それは濱口さんもよく分かっていて、だから、女性労働、非正規労働、中小企業をⅤ章で「周辺と外部」という形で切り分けて、説明している。この切り分け方は前著よりも非常にすっきり理解しやすくなった点です。しかし、翻って欧米対日本の雇用関係の対比ってそれで切り分けちゃっていいの?という思いがあります。

というのも、この前、あるところで話を聞いたときに、ある中小企業に関連する面白い話を聞いて、そのとき、はっと思ったのです。その話というのは、訓練生をインターンシップで中小企業のおやじさんに預けたところ、情が移って、終了時に「先生、本当は一人しかいらないけれども、ここまで一緒にやってきた片方だけを切ることは出来ないから、両方採るよ」ということになったそうで、こういう家族主義が日本的経営ですよ、というんです。これはかなり縁故採用的感覚です。大企業も皆無じゃないでしょうけれども、大勢は縁故採用からレッテル(学歴)採用へというのは大正以来あるわけです。

この話をすると、多分、いやいや、採用というのはある種の「官能」なんだといういつもの話を持ち出されるでしょうけれども、じゃあ、その採用方法って、大企業という仕組みが必要とした雇用システムの合理性から説明できるの?っていうと、少なくとも、このインターンシップの話はそうじゃない。そうすると、疑問は日本の雇用原理を組織へのメンバーシップ契約で説明すること自体にあります。まぁ、疑似家族のメンバーシップだと言われれば、そうかもしれませんが。

で、それも全部、分かってるよというのが、労務賃貸借と「奉公」というコーヒーブレイクなんです。そこでさりげなく末弘厳太郎が重要かもしれないねって書いてある。ズルい(笑)。これ読んで分かる人は、最初から分かっている人だけでしょう。ちなみに、法学の世界ではメインの有名な「身分から契約へ」というテーゼが合って、これを図式的に言うと、契約=近代(先進)対身分=前近代(後進)に言いかえることが出来て、この方程式も頭に入っていると、このエントリの上の方の議論とも平仄が合ってくるわけです。

何れにせよ、このコラム、本文よりも難しいし、身分法で押して行くと、本文のロジックと齟齬が出かねない。大体、身分法重視は東大労問研の中でも少数派で森建資先生と私くらい。他の人は分かってても書いてません。ちなみに、身元保証が大事だと言っているのも私くらいです。この辺の素材でもうちょっと詰めて考えられそうですね。ところで、西村信雄先生の議論って法学分野だとどれくらい検討されてるのか、どなたか教えていただければ幸いです。
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