濱口先生からお答えをいただいていたのですが、週末から今週は風邪を引いてしまい、ブログを更新できませんでした。申し訳ないです。

今回のやりとりで私が勉強になったのは、この理念型が単純な社会学的(社会科学的といってもいいですが)観察によって形成されるものと、法における規範を組み込んだ規範理論の二種類があるということです。私の場合、これをほとんど同一視していたのは、私自身の感覚がコモンローをバックグラウンドにしているためだと思います。古い古い自然法を前提に法の発見をしていくシステムであるところのコモンローでは、法=規範そのものであり、かつそれは神様によって作られている、ないし神様そのものなので、それ自体は争う余地がなく、あとは人間がそれを発掘して行くということになります。おそらく抽象的に究極的に言えば、規範=正義=法=神は一つになるはずです。ただ、エールリッヒが言うように、こういう仕組みを持ってるのは現在、コモンローだけなのです。しかも、その英米法圏でさえも、立法による正義というのが近代以降重要になってきているわけです。

それがないところの規範理論はどうするか、というと、やっぱり社会に求めるしかないんですね。でも、それはフリーハンドで手に入るわけではない。だから、社会そのものを観察する力を培わなければならない。そこで求められたのが「法解釈学」と比せられる「社会科学としての法」であったわけです。これは言ってみれば法社会学といってもよいのではないでしょうか。これを輸入したのは末弘厳太郎で、その次の世代であるところの我妻栄も1920年代にアメリカで社会学を勉強しています。最初に私が名前を出した西村信雄も、雇用関係における身元保証というところから「継続的保証」という理論を作り、それを一般化させた知る人ぞ知る大学者ですが、晩年には「法解釈学」ばかりやっているのではダメで、私法分野で「社会科学としての法」をやらなければならない、ということを主張していました(『個人法と団体法』の座談会)。

濱口さんは今回の本を労働法と労使関係論を繋ぎ合わせる必要があるという問題意識で書かれたわけですが、以上のような前提を踏まえて言えば、それも全部トータルで法学でやってください、と思わなくもない。法社会学をベースにした労働法をしっかり確立させるということでしょう(もちろん、末弘厳太郎以下、これが豊富な研究蓄積を残しているわけですが)。ただ、労働に関する法社会学が独立した成果を持っているかどうかというと、私の知る限りでは少し心許ないという気もするんです。実は、濱口さんが最初の方のやり取りであげられていた、菅野先生の『雇用社会の法』は問題意識としてはそれをなさろうとしたわけですが、その雇用社会認識はほとんど労使関係研究および産業社会学(稲上先生)に負っているように見える。

産業社会学というのは戦前から尾高邦雄の職業社会学のようなものはありますが、基本的に戦後始まります。途中、間宏が経営社会学を提唱した時期もありましたが、今は労働社会学と呼ばれている分野とほぼ重なっているはずです(詳しくは知りませんが、学会としては労働社会学会ですね)。ただ、その初期においてはかなり労働問題研究、氏原正治郎や藤田若雄の影響を受けているはずです。というのも、お互い講座派という共通基盤がありましたから、成果の融通もやりやすかったのでしょう。

濱口先生は私のことを社会政策学徒と呼んでくださって、私もそれが気に言っていたので、あえて言いませんでしたが、これまで議論してきたことは社会政策とか労働問題研究の枠組みで考えるよりも、繰り返しになりますが、全部法学内で何とかしてくれ的なことなわけです。産業社会学や労使関係研究から独立した分野として、労働の法社会学を確立させてくれ、ということなのです。そうして、我々隣接分野の人間はそうした分野の成果から痛切に新しい刺激を学びたいのです。

なお、濱口さんは最初の「金子良事さんの拙著評」で、

> その一つの帰結が、中小企業における「生ける労働法」の存立構造の二重性です。一方では伝統的な法社会学的認識や金子さんが例に出す中小企業の親父さんの「人情話」のような、古典的近代法と対比される伝統的前近代的共同体的縁故的「メンバーシップ」感覚によって特徴づけられるとともに

そのものずばりの法社会学という表現も並べておりますし、「生ける(労働)法」はご存じの方はご存じと思いますが、法社会学の最重要ワードなわけで、いつもながらに全部、御承知なわけでありました。

あ、ついでにとても重要なことを言いますが、本当は判例法理の後ろにある規範理論(今のところ実在しない)を構築して行く段階で、正義とは何か、ということを議論しないと現実には意味がないわけで、今はやりのロールズを読んでも、古典のハートを読んでもいいですが(というか読んだ方がいいですが)、そのレベルで議論して新しい何かを提供できる人は相当に優秀でないと難しい、ということを嫌がらせ的に書いておきましょう。個人的な独断と偏見ですが、もっとも優秀な理論家は、自分と違う情報ソースを持つベタな事実をたくさん知っている調査研究者や歴史研究者と容易に対話し、そこから新しい刺激を受けて自分の理論を深めていかれるように思います。
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