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hamachanから久しぶりにコメントを頂いたので、ちょっと考えてみたいと思います。瀧川先生の書いてらっしゃることはすごく分かる部分もあるんですが、私が強調したい点は少しズレています。

問題意識としては、いわゆる日本的雇用というものがどこから来たのか、ということがあります。この日本的雇用というのは大企業のものです。で、これは有名な商家起源説と武家起源説があります。私は今まで両方の説に捨てがたい魅力を感じていたんですが、その折衷として奉公制度を重視しようと思ったのです。

まだカステルの本をちゃんと読んでないので、それを読んでから書くべきなのですが、あの本を全部、読み切る自信はないので、差し当たり書いておきます。ポイントは近世社会から近代に移るとき、近世の諸制度をどのように近代に接続したのか、あるいはしなかったのか、なのです。そういう意味で「奉公」という言葉が持っていたプラスのイメージも重視したいのです。とはいえ、「奉公」には同時にマイナスのイメージが伴っていたことも無視は出来ません。実際の雇用関係、たとえば住み込みなどは、Alwaysのロクちゃんのように幸福なケースはおそらく稀であったと思われるからです。

にもかかわらず、武士階級というのは江戸時代を通じて、社会の美徳というか、そういう規範を作りだしていたことを私は重視したい。福沢諭吉が批判したように厳然たる身分社会でありながら、ある種の価値観が階級を超えて共有されていたということは大きいのではないかと思います。その一つが「奉公」制度ではないかと思っているのです。で、この「奉公」のイメージはやはり武家の御恩と奉公です。

このことと日本の勤勉思想というのはおそらく結びついている。それは象徴的には石門心学に見られるような、ある意味では階級を肯定しながら、その階級を超えたそれぞれの生き方を肯定的に見られるところに繋がっていく。これは明治30年代以降、ある意味では再発見されていくわけです。それは報徳思想(二宮尊徳)を媒介に地方改良運動へと流れ込み、国民的教化に結びついていく。同時に、企業の労務管理思想の中にも浸透して行く。

実はこういう規範とは別のものが職場を支配していた。それは職人の系譜を引く職工の文化です。多分、これは私の勘では1950年代くらいまで続きました。ところが、これを工職混合と「技術革新(言葉そのものの意味ではなく、思想としての技術革新)」が相俟って、次第に職員の方の規範に変えて行った。この変化と能率給から定額給(いわゆる年功賃金)へという流れはパラレルです。

この間、大正時代などはある種、職工文化がもてはやされた後、けなされて行くんですね。それはある種の刹那主義です。そのプロセスの中で重要だったのが勤勉思想です。分かりやすく言うと、将来のためにはちゃんと貯金しなさい、そのためには倹約しなさい、という発想です。これは明治30年前後から求められていました。その結果の郵便制度でもあるのです。

なぜ、日本がブルーとホワイトが決定的に分裂しなかったか、というところに、こういう根深い文化的な共有できるものがあったのではないか、というのが私の仮説です。何も実証してませんが。どうせ書いても、ほとんどの人は分かんないだろうから、適当に書いておきます。

ちなみに、瀧川説への私の反応は近世以前は関係なし、です。カステルも中世以降(近世)から近代への変化の中で捉えているでしょう。スティグマを貼られたという状態とはやはり日本は違うと思うのですが、どうでしょう。なお、この価値観の違いは、経済学の労働=苦役という発想への日本人の違和感とも関連します。もっとも、それが悪い方に暴発すれば、働き過ぎという方に向かっていくわけですが。
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