このところ、T・H・マーシャルの論文集を読んでいたのだが、彼の歴史認識は正しいと言わざるを得ないと思えてきた。一つは、原理的な平等志向の成長という視点である。彼は社会福祉の背景にこの原理を捉えている。もう一つは、職人的世界から市民資格的世界への移行である。言い換えれば、トレードからシチズンということだろうか。これも非常にビビッドな視点である。もちろん、こうした傾向がよいというわけではない。ただ、起こってきた事実を確認するとき、たしかに、こういう側面があったことは認めざるを得ないと思うのである。

もう一つ、別の観点から問題を指摘しておこう。マーシャル自身がこうした平等性を重視する社会福祉を社会に認知させる大きな力そのものであったことである。ピンカーがいかにマーシャルの価値中立的な立場を強調しようと、大きな枠組みの中では、マーシャルの学説が社会学・社会福祉学を社会に認知させ、社会福祉を推進力になってきたことは否定すべくもない。本人の意図がどうであろうと、結果だけを見れば、マーシャルは政治的な影響力をもったのである。ただし、私はそれがよいとも悪いとも思わない。今はまだそれを判断できるほど、材料が揃っていない。

ともあれ、マーシャルの職人的世界から市民資格的世界という歴史把握が正しいとするならば、20世紀初頭のアメリカに端を発し、戦後の占領政策で日本に持ち込まれ、現在もなお勢力を保っている専門職化志向というのは、こうした時代の流れに逆行するものであったのかもしれない。

欧米においてプロフェッショナリズムが根強く息づいているのは、当然、歴史的な蓄積があり、現在も継続している。然るに、日本の近時の傾向を見ると、専門職の希釈化が行われているように見える。それもビジネスの分野以外においてである。伝統的なプロフェッションといえば、医者・法曹家・学者・宗教家である。まず、医者(ないし医療関係者)に対してはインフォームド・コンセントという形で、医者の単独判断よりも患者の判断を参加させることの重要性が主張されている。法曹家については、司法試験改革と裁判員制度だろう。学者については、もともと専門性の怪しい領域ではあったが、1960年代の学生運動によって社会的権威が失墜した(それでもまだ高いが)。言うまでもなく、これには大学の大衆化という現象が密接に関係している。この傾向は現在に至るまで続いている。宗教家については、I'm not religious but spiritualに象徴されるように、1960年代の欧米における東洋思想受容を軸に、日本でも再び、そうした自分の経験を重視する考えが徐々に出てきている。また、トランスパーソナル心理学やターミナル・ケアといった医療領域からの接近も許している(もっとも、宗教者は歴史的にどんどん専門性を様々な職種に奪われていったのだが)。

実践的な観点から考えて、専門職化という方向が正しいのか、誤っているのかを判断する力は私にはない。シチズンシップと専門職の関係は何れ考えてみたい論点である。
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コメント
どっちかと言うと「消費者主権的世界」および、その類推的世界ではないだろうか。それを市民的世界と言えないこともないと思うけど

>職人的世界から市民資格的世界への移行である。言い換えれば、トレードからシチズンということだろうか。

>医者(ないし医療関係者)に対してはインフォームド・コンセントという形で、医者の単独判断よりも患者の判断を参加させることの重要性が主張されている。法曹家については、司法試験改革と裁判員制度だろう。学者については、もともと専門性の怪しい領域ではあったが、1960年代の学生運動によって社会的権威が失墜した(それでもまだ高いが)。
2009/06/27(Sat) 10:20 | URL | さわ | 【編集
消費者主権?
一応、引用部分は職人的世界がどう解体されていくか、に注目して書きました。この論点はまだ、あまり整理して考えていないので、また、改めて記事にしようと思います。コメント、ありがとうございました。
2009/06/28(Sun) 00:12 | URL | 金子良事 | 【編集
そうですね。お書きになっているようなことが職人的世界に対する大きな圧力になっている、という感じはします
2009/06/28(Sun) 02:59 | URL | さわ | 【編集
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