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さあさあ御立合い、御用とお急ぎでない方は聞いておいで、見ておいで、濱口金子劇場、始まるよ。

というわけで、今回はまた強烈なのが来ましたね。最初にhamachanが私の書評スタンスを批判されているのですが、微妙な違いなんか、こんな字数で表現できるわけない、というのが一つ。それに細かく書いたってどうせみんな分からんでしょうし、分かっている人は、私の文章を読めば、全部分かった上で、書き分けているのが伝わるはずだからいいのです。実際、濱口さん自身は分かった上で書いているわけですし。

ゴードンさんの研究はたしかに、実証的にも優れていて、その点を微細に評価するという方向もあったと思います。ただ分かる人には、というか、実際に資料を読んでどういう風に労使関係を描こうかという苦労した経験のある人には伝わるように、その機微も書いてあります。具体的に言えば、ゴードン先生さえも意識されなかった賃金制度への注目であり、京浜工場地帯という切り取り方への注目なのです。ただ、先生自身は雇用保障に関心を持っていたそうです。いずれにせよ、こうしたことを詳しく書けば、超マニアックな書評が出来上がったことでしょう。

私自身はあんまり学術論文で大きな話をするのは好きではないのですが、今はあまりにもグランド・セオリーというか、そういう大きな話を出来る人がいなくなってしまった時代なのです。だからあえて、私はクリアカットして、20年代説、戦時説、50年代説という切り分け方をして、大きな見取り図を描こうとしたのです。まあ、理念型的ですね。ただ「微妙な感じ」を知りたい人には分かるように兵藤、間、孫田などの主要論客の学説と実証的証拠などポイントで捉えて分析してありますから、このあたりは完全にプロ仕様になっています。成立時期の対立という一面的な理解で、「微妙な感じ」を感じ取れない人には理解できないはずですから、何を言っているんだろう?と不安になって下されば、それで十分です。

ただ、ここからが捻じれてややこしいんですが、濱口先生はもっと大きい話をしようとしています。これが主要な第二のポイントですね。それは現在に繋がる社会保障と日本的雇用との連動が硬直化している問題、その原因が何かを捉えようという話です。というか、平たく言うと、そこに話が収斂させていこうとしている。それがメンバーシップ論です。ですが、多分、20年代の話は50年代の話には直接、繋がらない。

たしかに戦後の労使関係、とりわけ企業別組合が念頭にあって、メンバーシップ論は展開されて来ました。でも、これは昔、私が反論しましたが、戦前と戦後をそこで連続的に見るのは難しい。そもそも、戦前の労働運動は今よりもはるかに意識が高く、社会とか労働者階級というものをしっかりと捉えていたといっていい。そもそもミスリーディングも何も、とりあえず研究史上、重要だと思われきてようなので、触れておいたんですが、はっきり言って、メンバーシップの問題で労使関係を切っていく視点は二村、ゴードン、禹に至るまでみんなダメだと私は思っているんです。だから、ほとんど無視した。それだけのことです。

日立のような学歴至上主義の会社で、あいつより俺の方が優秀だったけど、うちが貧乏だったから学校に行けなかったがために、という恨み節をもっているところは、そこが決定的に重要かもしれませんが、50年代の鉄鋼労働者はおそらく、ホワイトカラーと同じ処遇をされるよりも競馬・競輪の方が重要だったのではないでしょうか。そういう労働文化を変えようとしたのは、むしろ、八幡製鉄に始まる技術革新のために、熟練工を再教育していくという中で生まれた気がします。どちらかというと、労働側(ないし労働組合)は受け手だった。ただ、これもケースによるでしょう。

戦前の労使交渉は協議、交渉、争議という形ではなく、協議するところもあるけれども、争議で初めてテーブルにつくという場合が少なくなかった。交渉が始まるのは20年代後半くらいからです。その意味で争議は今よりもはるかに重要でした。争議というのは、イコール、組織運動的な意味での労働運動ではない。いわゆる山猫ストのようなものも少なくない。もちろん、それをも労働運動に含めてもいいし、平たく言えば、それは定義の問題ですが、組織運動化した労働運動とはとりあえず分けて考えましょう。そうした争議総体の中で、なお認められていないというメンバーシップの問題が言われていたと理解すべきでしょう。日鉄機関方争議はたしかにあれは企業別組合だし、そういう意識でやっていますが、1910年代の組織的労働運動家はおそらくそうではない。彼らはプロレタリア文学やそれに類するもので勉強して労働者意識を作っているのだから、縦の組合(工場委員会含む)は当然、糾弾の対象です。これと1950年代の話とは全然、繋がらない。

私の理解では、企業別組合の問題は労使関係の問題という側面からよりも、労労関係の方から捉えて行った方が話が早い。要するに、労働運動における組織論の問題です。で、平たく言ってしまえば、日本は友愛会設立以来、個別組合より先にナショナルセンターが出来て、それが左右の逆転はあってもリーダーであったわけですが、それによる統制が大企業の組合に効かなくなった。つまり、最初は多分、松岡あたりの右派が指導して、企業別組合を作って行ったんだと思いますが(私はこの点ではその方が交渉力があったからそういう戦術を選んだと解釈しています)、青は藍より出でて藍より青しで、大手の企業別組合の方が強くなってしまった。一番、象徴的なのはJC春闘ですよ。そもそもナショナルセンターや産別で徹底的に大手企業別組合と戦ったのは、業界ナンバーワン企業の東洋紡や鐘紡を除名した全繊くらいじゃないですか。それを企業内労使関係で回収していくのはおかしな話だと思います。もちろん、この背景には政治的対立(含むイデオロギー対立)、人間関係的対立などがグチャグチャにあるわけです。

企業別組合は半封建社会論と当時結び付けられていて、それが批判対象でもあった。大河内先生は学問的にウェバー的な型論的な考えをもっていて、それは単純な半封建社会批判ではなかったけれども、批判はしなくてもそういう現状認識は共有していた。同時にその認識枠組みは運動側には共有されていた。彼らは生の事実は事実で知っていたけれども、それを整理して理解するときには人が作った枠組みに頼った。なぜ、こんなことを書くのかと言えば、そもそも先に学者の労働運動批判があって、それこそが企業別組合=半封建社会批判というテンプレートだった。これも大きな意味をもっています。というのは、これ自体がイデオロギー含みであり、これが労働運動とも連動していたことは確認するまでもないでしょう。

この運動を理解するときに、イデオロギーとかプロパガンダとか、そういう側面をどう相対化していくのか、ということは私は重視していますが、今まではあんまり明示的には議論されてこなかった気がします。そして、すべての運動にはプロパガンダが決定的に重要です。敗戦直後は工職身分一体化はスローガンでは訴えられたけど、それは職員層も生活のために労働運動(賃上げ)をしていく必要があり、うがった見方をすれば、労働運動の中で工職で分断してしまうのはあり得ない事態だという背景があったのではないか、という風にも捉えられます。

もうひとつ捻じれがあるのが、戦後、組合が沢山出来たとき、産報の看板を掛けかえたところもたくさんあった。それを濱口さんは企業別組合という文脈で見ている。それはそれで間違っていないんだけど、大企業の企業別組合が労働運動の中で強くなっていったのはそれとは別に考える必要がある。それはチェックオフやユニオンショップなどの組織化戦略と無縁ではない。私はその両方とも労働運動の本質から考えると、邪道だと思うし、そう言っても来たけれども「そんなこと言ったって金子さん、それじゃ役員に誰もならないよ」という現実もあるし、あったわけですし、それを日和見主義と取るか、すべての偉大な政策は妥協の産物であるという精神で行くかは立場の違いです(私自身は後者ですが)。

日本には現場主義というのが明治からあって、それは技術史の人たちの中では、移植産業だったからという説があり、そう大雑把にいってもその解釈にはいろいろあるでしょうが、大枠には私もそれでいいと思う。それが協調的労使関係の基盤にあると思いますが、そこを論じていくと時間が足りないので、今日はこのへんにしておきましょう。
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