同じ頃、同じ山上会議所で、史学会の公開講演会があった。講師は、羽仁五郎であった。日本社会学会の例会には、小さな部屋が用いられていたが、今度は、大きなホールが用いられ、ホールは、ファンの学生で埋められていた。当時、『新興科学の旗の下に』という雑誌が小林勇氏経営の鉄塔書院からはこう(昭和三年秋から翌年末まで)されており、彼は、三木清などと共に、それに拠るマルクス主義歴史家として、大変に人気があった。彼が何を話したかは覚えていない。当時の私たちにとっては、彼が何を話すかではなく、彼が何かを話すことが問題であった。高名な人物の風貌に接し、その言葉を直接に聴くことが、私たちの願望であった。彼の講演は拍手の裡に終った。ホールを埋めた学生は、興奮と満足とを感じていた。「何かご質問はありませんか」と言ったのは、幹事(?)の秋山謙蔵であった。私は、秋山謙蔵の友人を通じて、彼が、史学会の保守的な伝統に相応しくない講演会を実現するために、特別の努力を払って来たことを知っていた。また、一部の読者は、その後の秋山謙蔵が国粋的歴史家として活躍したことを知っておられるであろう。
 ホールでは、私は、講師から遠く離れた席に坐っていた。講師の横の秋山謙蔵が「何かご質問は・・・」と言うと同時に、講師や秋山謙蔵に近い席から一人の男が立ち上った。学生ではなく、中年の小柄な男で、和服を着ている。講師に向って、丁寧に頭を下げた。「私は慶應義塾大学予科に職を奉じております蓑田胸喜と申すものでございます。」私は、虚を衝かれたような感じがした。彼は、三井甲之などと共に、大正十四年秋に原理日本社を創立して以来、マルクス主義者やリベラリストの最も恐れる右翼の論客であった。ホールに波のようなものが起り、それが学生たちの興奮や満足を一度に冷やして行った。「来たぞ!」という囁きが聞こえた。私たちの間には、羽仁五郎が、この右翼の論客に敗れるのではないかという不安、彼を軽く片づけてしまうであろうという期待、どちらが勝ってもよい、愈々面白いことになったという気持が新しく生まれて来た。「本日は有益なお話を承り、平素から抱いておりました疑問が一々氷解いたしまして、寔(まこと)に有難う存じます。つきましては、この機会に、もう一つの問題について御高教に接したいと存じます。」彼の問題というのは、マルクスの見解によれば、社会主義革命は、資本主義が高度の発展を遂げた国に起るとされているが、ロシアのような低開発の国に最初の社会主義革命が起ったのは、どういう理由によるものか、というのであった。彼の態度は、申分なく鄭重であったし、この問題も、重要なものであった。蓑田胸喜の言葉が終ると、羽仁五郎が立ち上って、答え始めた。何と答えたかは忘れてしまったが、彼がしきりにボクロフスキーという名前を持ち出し、その見解を紹介したことを覚えている。ボクロフスキーは、当時のロシアの代表的な歴史学者で、彼の多くの著作は、日本語に翻訳されていた。答弁が或る程度まで進んだ時、蓑田胸喜は立ち上って、「折角ではございますが、私は、ボクロフスキーなるものの意見を聴くために、ここに参ったのではございません。どうか、羽仁五郎先生の御見解をお述べ戴きたいと存じます。」羽仁五郎は、「判りました」と言って、再び話し始めるのだが、直ぐまたボクロフスキーが出てしまう。そのたびに、論客は立ち上って、手で制しながら、「私は、そのボクなにがしには興味はございません」と言う。同じことが何度も繰り返された。
 私は、どうしてよいか判らなくなった。蓑田胸喜の提出した問題は、私たちにとっても未解決の問題であるから、誰も羽仁五郎に代って答えることは出来ないが、もともと、そういう問題を提出しないというのが、また、ボクロフスキーの権威ある見解が紹介されたら、それで一応満足するというのが、内輪qの約束のようなものである。羽仁五郎が何を話すかでなく、何かを話すことで夢中になっていた私たちは―羽仁五郎自身も―内輪だけの会だと思っていたのだろう。講演会は、何処にも敵というものを予想しないで、ただ仲間だけで頷き合う楽しい会の心算であった。しかし、内輪でない人間が一人でも現れた時、内輪の約束は何の力もありはしない。せめて、蓑田胸喜が乱暴な言動に出てくれたら、それを非難することで何とか打開の道が出来たのであろうが、その点に一分の隙もなかった。彼は、食物に入った一粒の砂であった。一粒のために、食物は食物でなくなろうとしていた。私たちは、ジリジリし、ホールの空気は、暗く沈んで行った。私は、これという考えもないまま、左隣の席にいた輿水実に向って、「何とかならんものかね」と言った。彼は、東京高等学校の読書会のメンバーで、文学部哲学科へ進んでいた。「やってみようか」と言って、彼は、学生たちの間を通り抜けて、蓑田胸喜のところへ行き、何か囁いた。何を囁いたのか知らないが、蓑田胸喜は立ち上って、羽仁五郎に向って、丁寧に頭を下げ、「いろいろ有難う存じました」と言って、静かに会場を去った。―約十五年後、日本の敗北で戦争が終った時、彼は自殺した。

清水幾太郎『わが人生の断片』上、文藝春秋、1975年、278-281頁。


いつか書いたエントリの続き。そういえば、ソ連が崩壊して自殺した学者ってどれくらいいたかな。蓑田胸喜クラスになると、その名前だけでレッテル貼りになるんだから、歴史というのはまことに勝者のものですねえ。

それにしてもこの部分、さすがに清水幾太郎ですね。もちろん、保守に転向してから書いたものです。これを読むと、戦後、言語道断で断罪された蓑田胸喜もそうですが、秋山謙蔵にしたって、むしろ公平な人物として描かれている。それに比べて羽仁五郎は全く何も内容のない人物であることが暴露されている。このとき羽仁五郎が何か真摯な答えを返していたら、時代は変わってましたかね。それにしてもまったく何も内容に触れていないのに、ここまで鮮やかに対照的に描き出している文章力というんでしょうか、物語力というんでしょうか。圧倒的ですね、清水幾太郎。
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