今更、こんな話をするのも野暮というか、ほぼ常識に属することだと私は信じているのだが、もともと日本語の「労使関係」という言葉は、上司と部下の関係に等しい。というのも、戦時期から各種統制の不合理からブルーカラーとホワイトカラーの労務管理上の統一が進み、両者の融合化が進んだ。そこで労働基準法では、周知の通り、ホワイトカラーもあわせて対象とすることになった。そのときに困ったのが、ホワイトカラーの名称である。

戦前は一般には労資関係における「労」は職工のことであり、「資」は職員以上と考えられていた。職員層にあえて労働者という言葉を使う場合は、「知的」という接頭辞がついた。これは理論的にそうなったのではなく、「労」の意味が最初に定着して、自然と慣習的にそうなったのだろう。しかし、今度は「労」の中に、ホワイトカラーを含めなければいけない。そこで考え出されたのが「使(用者)」という魔法の言葉である。非常に単純化して、比喩的に言えば、上司として扱われるときは「使用者」、被用者として扱われるときは「労働者」という階層の人たちを作り出したのである。このことを確認したい人は実際に労働基準法の第9条及び第10条に当られるとよいだろう。

一応、念のために断っておくが、私が言いたいのは実務的な問題ではない。当たり前だが、実際の社会秩序は(省令等も含めた)各種法律と判例法によって成立している。したがって、それを無視した議論は意味がない。一つ一つの判例を検討した上で、その法的な論理構成がどのように問題があるのか、というレベルから議論しないと話にならないと思っている。そのような作業はもちろん大切な仕事だが、当面の私の任ではない。

実際の言葉は論理的に確定していくわけではないので、理論的につじつまが合わなかろうが、別に差支えない。むしろ、そのこと自体が歴史研究にとっては研究対象である。慣習的使用法と論理的使用法のズレの意味、すなわち、論理的に合わないにもかかわらず、その言葉によって何を人々が表現しようとしたのかを探索することはとても重要だ。

現在、労使関係を聞いて直ちに思い浮かぶのは、普通の語感だと、集団労使関係のイメージではないだろうか。「労使」という言葉の使い方は労使交渉と結びつきやすいし、労使関係という言葉はindustrial relationsの訳としても定着している。もちろん、もともとの上司と部下の関係、ないし、会社と被用者の関係は個別労使関係として残っている。

個人の問題と集団の問題をどう考えるのか、ということは雇用関係と労使関係を考える際に、非常に重要な視点であり、しばしば研究者も混乱に陥ってきた(ないし陥りがちだった)、と私は秘かに思っている。このあたりのことから話を進めて行こう。
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