禹さんの本には独特の読みにくさがある。今から振り返ってみると、ようやく私にも禹さんがやろうと思っていたことがおぼろげながら、分かってきた。ただし、禹さん自身も必ずしもちゃんと、意識化して言葉に出来なかった。件の研究会の発言をもとに少し再構成してみよう。

禹さんは、「身分」は普通言われているような、フォーマルなものを想定している。たとえば、ホワイトカラー、ブルーカラー、昔で言えば、傭人・雇員などである。この各身分を細かく割ったものが資格となる。だから、禹さんにとっては「身分」ははっきりしている。しかし、「取引」については何かまだすわりが悪くて、良い言葉があれば、取り替えたいと仰っている。

私自身はこのときから、禹さんは「身分」の中にインフォーマルな意味も含ませたのではないか、と考えていたのだが、それは違う、フォーマルな意味だと仰られた。実はこの禹さんの発言の前に、市原さんから「重要なのはメンバーシップなのでしょう」という振りがあった。

ここが重要なポイントだが、おそらく、禹さんは「身分」そのものではなく、メンバーシップを承認されることによって得られる「権利」の問題を論じていたのだと思う。ある種の資格(身分)を獲得することによって、それに伴う「権利」を得るということはよくあることだ。面白いことに、この資格の問題と権利の問題はしばしば混同されてきた。たとえば、T.H.マーシャルのcitizenshipは昔は市民権と訳されてきたが、最近では単にカタカナでシチズンシップと訳されているし、三部作を訳された岡田先生も晩年は「市民資格」という訳を使われるようになった(なお他にも「市民性」という訳語を使う人もいる)。マーシャルは市民権(civil right)のなかで20世紀以降に発達してきた社会権の問題をシチズンシップという大きなパースペクティブの中で議論しているのだ。

非常に分かりやすく言ってしまえば、この従業員であるという属性によって付与される「権利」の内容が、フォーマル・インフォーマルを問わず労使交渉によって伸縮自在、というのがポイントである。禹さんご自身がどれくらい意識的にそうされたか分からないが、メンバーシップの問題に主な関心があったため、タイトルには「労使」よりも「雇用」に焦点が当っている。ただ、ここが微妙で、雇用”関係”ではなく雇用”慣行”というところが面白い。実際の分析では、その”慣行”を決める労使交渉がメインである。その限りにおいては、立教の井上先生が辛らつな書評で、従来の労使関係分析の手法に比べ何が新しいのか、わざわざ言葉を変える意味があったのかと疑問を呈されたのも、ある意味、正鵠を射ていたといえよう。

この慣行ならびに慣習の意味を考えるには、森先生の雇用関係論を取り上げる必要があるのだが、このブログを始めた当初に書いたとおり、私の見る限りしっかり摂取されているとは言いがたい。

ちなみに、この「権利」の問題を論じた人がただ一人だけいる。すなわち、トマス・C・スミス先生である。ただ、私が知っている限りだと、『日本における社会史の伝統と創造』に収められた二本の論文は本当に画期的なのだが、あまりその画期性が共有されているとは思えない。今のままではただ名著であるという声価だけが確立して存在し、本自体は神棚に飾られるだけに終わってしまうような気がしてならない。
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