今日、情報労連さんで講演して来て、最後の質疑応答の中で重要な質問をいただきました。組合では人が大事だと思って、投資を強調するようにしたいけれども、労働者自身が自分たちが費用であるという認識が浸透している、これを打開するにはどうすればいいか、という質問でした。私は答えられませんでした。ただ、それは組合だけではない、教育の現場でも同じです。だから、私も処方箋が欲しい。結局、一人ずつ、こうやって質問をしていただいて、それをこういう風に対話すれば、それを聞いて何かを感じたここにいらっしゃる方々がそれを広めてくれるかもしれない。そうやって少しずつ、広げていくしかないのではないか、とお答えしました。そうお答えしたけれども、私自身、満足できていなくて、帰り路、歩きながらずっと、この問題を考えていました。そして、この問題を考える一端になるヒントを帰る直前にいただきました。それは投資も最後までいったら、投資ということではダメですよね、ということです。

問題がどこにあるのかが本(もと)であるならば、それを解決するためにどう伝えるべきなのかは末の議論です。でも、この場合、末の議論が重要でないということではまったくない。同じように重要です。これは、今に始まったわけではなく、昔のお坊さんたちは厳しい修行をして真理を探究したわけですけれども、それをそのまま一般大衆に伝えることは難しい。でも、伝えたい。そのための言葉を方便といいました。方便は方便で重要なわけです。

昔、立教の井上先生と初めてお会いして飲んでいるときに、学問は真理を探究するものだという観点から何かの研究を批判したら、宇野派かと言われ、うん、君の言っていることは分かる、分かるけれども、僕らは今日、初めて会ったんだぞ、と言われたのを思い出しました(笑)。でも、学問は本来、本(もと)を探究する営みだと思っています。でも、実践家は末を求めている。正確には本を踏まえた、末を求めている。本当はそこに答えなければならないわけです。

私がこの春闘を通じて、メッセージはシンプルに、賃金は費用ではなく投資という側面があることを発するべきだと主張しています。それは根本的には、90年代、正規も非正規もあわせて人を大事にしなかった。その価値観を再転換させなければならない、という問題意識があるわけです。だから、まずは投資、人的投資ということを強調しています。でも、それでは足りないんですね。投資では最後まで行けませんね、という言葉は沁みます。

人に投資するという考え方は、それこそ古くからありますけれども、人的投資という言葉を普及させたのは、ゲーリー・ベッカーの人的資本論だと思います。学説史的に言っても、コモンズも19世紀に短い論文で既に同じ概念を話していますが、学者の世界でもほとんど知られていないでしょう。そのベッカーがこの概念を教育に適用したとき、アメリカでも大激論を引き起こした。神聖な教育という営みに何という冒涜なのか、と。ベッカーはもちろん、教育が経済学だけで分析しきれると思ったわけではなく、その一部分を切り取って見せただけでした。それはいかにも20世紀の社会科学者らしい振る舞いでした。個人的なことを言えば、私はきれいごとばかり言う教育学者の大半が嫌いです。もちろん、海後宗臣や澤柳政太郎のように尊敬すべき人がいるのも分かっています。でも、概して自分のことを棚に上げてきれいごとをいう気持ちの悪い人が多い。それに比べれば、ベッカーの方がはるかにさわやかだし、好ましいと思って来ました。でも、それは同時にひょっとしたら、パンドラの箱を開けてしまったのかもしれないとも今になって思います。言うまでもなく、費用対効果は投資と切り離せない概念だからです。もちろん、それは人を大事にするというメッセージの方便なんだけれども、本質的には問題をはらんでいるかもしれない。とはいえ、一足とびにはいけないので、費用から投資への転換、それから投資という言葉を使わなくても人を大事にするという価値観まで持っていかなければならない。でも、だからこそ、毒を含んだプロパガンダであるということは意識して使って行かなければならないんですね。

教育社会学のなかではメリトクラシーという言葉で一括されてしまうのですが、本当に、近代の学校社会って、そういう観点で語ってしまってよいのか、という疑問が私にはあります。それが大きく変わるのは1960年代ではなかったかとも思うのです。研究的に言えば、大河内さんらの「人的資源」概念を輸入した教育社会学の清水義弘をどう評価するのかという問題に繋がりそうな気もしますが、私はむしろ、予備校の転換が大きいと思っています。その頃までの予備校は塾の伝統を引き継いでいました。江戸時代までの教育は、先生個人があって、その先生に教わりたいというものが根強くありました。だから、明治時代の履歴書を読むと、〇〇先生に師事して漢文を二年間習う、というようなものが出て来ます。今も神田にある正則学園高等学校がありますが、この学校はもともと斎藤秀三郎が開いた正則英語学校でした。明治時代、東大の学生は英語学者としての斎藤の見識と評判に魅かれ、英語を学ぶためには、正則英語学校に通ったのです。そういう塾的な気風が残っていたのです。予備校は今でも名物講師がいて、一時期は学校よりも塾の方が教え方がよい、というようなことさえまことしやかに語られていました。でも、基本的には、1970年代から「偏差値」が入り、状況を変えて行ったのです。受験勉強の効率化が、IT(コンピュータ)技術に支えられて進んで行ったのです(本当はここら辺を学校、予備校の関係も含めて丁寧に描かないといけません)。

多くの社会に出た方は理解されていないですが、学校というのは企業以上に効率を追求するところになってしまいました。この前、高等教育で起っている現象はすべて需給関係で説明できると言ったら「いや待て、でも俺たちが学生募集に行っているのもそうか。それにしてもお前がそんなこと、言うとは思わなかった」と言われましたが、90年代規制緩和で大学の数は増えるし、少子高齢化で学生の数は減る。学生数を確保するために、大学は入試を簡易化するのだから、学生に対して勉強へのインセンティブを与えるのが難しくなるのは当然です。そういう行動は経営体としては正しいかもしれないけれども、社会全体、とりわけ教育機関として見たとき、倫理的によいのかと問われるべき問題です。誤解を恐れずに言えば、かつての高校卒業レベルまでの能力をその過程で身につけることが出来なかった子のために親心で進学させるというケースが増えています。そして、大学もそれを顧客にしている。だから、もっているのです。大学は半分以上は福祉施設だよという所以です。

ぶっちゃけって言えば、私は自分が面白いと思ったこともないものを誰かに教えちゃダメだと思うんですよね。これはどれだけいるか分かりませんが、数学や国語をなんで勉強するのか説明できない人間に教われば、勉強なんて楽しいと思えるはずはない。それでは本来、労役たる児童労働からの解放を目指した学校が、ただの教役(キリスト用語ではなくて、労役と対比した造語です)になってしまう。それじゃ、ブラック企業でアルバイトをして毀損されていくのと大して変わらないわけです。

近年、濱口さんあたりが労働教育が必要だということを主張されて来ました。私もそれは大切だと思います。方便のレベルでは。だって、本当に社会に放り出されて、ちゃんと救われる道があるのに、それを知らないで、可愛い教え子が壊されていくのは忍びない。でも、本当に、それだけで大丈夫なんだろうか。もっと根本のところで、社会が変質してしまったのではないか。まだ、私にはその本質はつかめていません。でも、それを掴んだ上でなければ、自分を毀損していく若者を救うことは出来ないのではないかとだけは感じています。
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