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釜石から帰って来るので、持っていった本もなんか読む気分じゃないしと思って、シープラザに入っている古本屋さんの親書を眺めて、稲垣良典先生の本を買いました。これは大当たりでした。

稲垣先生と言えば、トマス・アクィナスの研究者として有名ですが、この本は1971年、先生が43歳のときに書かれたもののようです。1970年代当時の世相において、カトリシズムがどのような意義を持つのか、最新の動向も踏まえながら、まさに思想=実践的な立場から書かれています。私の独断と偏見で言えば、近代のキリスト教は二回、大きな転機を迎えています。第一に、19世紀末、レオ13世が「レルーム・ノヴァールム」と呼ばれる回勅を出したときで、これはキリスト教が社会問題への認識を示し、同時に積極的に取り組む姿勢を打ち出したものとして有名です(もちろん、いわゆる社会問題には以前から取り組んでいたわけですが)。第二に、1960年代前半に開かれた第二バチカン公会議です。これはカトリックが異教徒を「真理を探究する存在」として認めた画期的な会議として知られています。稲垣先生はまさに、この会議を30代、ちょうど私と同じ年齢の頃に迎えられたんですね。学者としてはまさに青年期にあたるわけです。

そして、1971年といえば、国内の情勢では後から考えれば退潮に入り始めたとはいえ、学生運動なども含めてマルクス主義がまだまだ元気なときです。思想で言えば、サルトルもそうですが、現象学なども出ていますね。この本でもフッサールが注目されています。また、高度成長が終わりに近づき、経済成長は所得の増加ほど福祉の増加をもたらしていないということ、それから公害を中心に環境問題が生まれ、「科学」への期待もある程度、落ち着いた時期です。こうしたカトリックの転換、科学主義の一段落、マルクス主義、思想が元気であった時期、そして、稲垣先生ご自身の青春時代が重なり合って、この本は他にあり得ない絶妙な一冊になったのだと感じました。今でも読まれるべきだと思います。ロールズの正義論もこの年ですねえ。

この本を勧める理由は、日本ではキリスト教研究がプロテスタントに偏っている、という現実があります。伝統的に知識階級とプロテスタント、とりわけ内村鑑三一派の結びつきが強かったこと、そして、彼らが社会運動と少なからず関係を持ったこと、社会運動と労働運動が戦前以来、関係を持っていたこと、それらが「抵抗」というキーワードで結びつきやすかったことなどをもって、それらが日本国内ではメイン・ストリームでした。日本でもカトリックがなかったわけではなくて、たとえば、岩下壮一の『カトリックの信仰』もあります。でも岩下神父は一般受けするような本をいっぱい書いたわけではありません。ちなみに、『カトリックの信仰』はよい本だし、勉強したい人にはカテキズム(公共要理)と並んで勧めるところですが、あの厚さの本は誰にでも気軽に勧められるというようなものではありません。それでも、戦後の教育基本法を作った田中耕太郎は岩下神父を代父としていますし、そのカトリック思想は教育基本法にも継承されました。なお、ついでにいいますが、90年代から保守の教育思想の代表のように言われた、つくる会はいろいろな意味で残念な結果になりましたが、今の会長杉原誠四郎さんの仕事の一つは、この田中のカトリック臭を抜いて、なんとか宗教的な道徳を教育のなかに戻そうという試みであり、とても重要な価値を持っていたので、変な運動に入り込まれ、大変に残念です。あとは、一般的には遠藤周作が有名ですね。でも、遠藤周作を通じてカトリックを理解するのは、あまりオーソドキシーではないので、遠藤周作に親しむの良いと思いますが、カトリックの勉強するのには向かないでしょう。

まあ、そういう事情の中で、カトリックをなぜ学ばなければならないか、というのは、まずヨーロッパの福祉国家その他、特に人権思想などの哲学的背景を知るために、基礎教養だと思うからです。それはちょうど、日本語において基礎教養として仏教用語を勉強した方がよいというのと同じです。そして、同じ程度に必要でありながら、実践されていませんねえ。そういうのが共有されると、私のような門外漢も勉強し易い本に簡単にたどり着けるので、助かるんですが。

個人的には、超越を基盤にするという発想(ここから派生して現象学を改めて勉強したくなりました)、それから、自然法の普遍の部分(超越)と可変する部分という区分けの仕方、マルクス主義をあわせ鏡とすることで歴史主義の意義などについて興味深く読みました。あと、面白いのは、人間は他の動物に比べて独力で生きていくのが出来ないので、社会を形成すると考えるのではなく(動物も社会を形成しているというのは生物学が発展した今日では常識ですが、昔は知られていませんでした)、自己の充足、豊かさ、完全性ゆえに共同体を形成するという発想ですね。そのあふれ出る豊かさを神愛=カリタスと呼ぶそうです。へえ、です。

労働問題の方からも考えたいことがたくさん、つまっていたんですが、ここまで書いたら(中身にほとんど入っていない!)、上野についてしまいました。降りる準備しなきゃ。続きはそのうち、書くかもしれません。




追記あるいは道徳と教育勅語

田中からカトリシズムを抜いたらただの反共主義というコメントをはてブでいただいたのですが、杉原さんはキリスト教を神道や仏教などと均して、普遍的な善(という概念もはなはだキリスト教的ですが)をベースにした道徳、倫理を探究していたように思います。安部政権の教育改革は、拙速に過ぎますし、道徳教育の進め方も?というところがありますが、道徳教育をどうするか、ということは明治以来の大問題なんですね。

教育勅語にしても、あれは天皇を中心とした皇室の崇拝という風に捉えられるところもありますが、一つは儒教を中核とした普遍的な徳を志向した側面があります。キリスト教やそれをベースにした倫理の教科書があまり根付いておらず、論語を始めとした儒教の経典に戻ったりしたのですが、なかなか新しい時代にフィットしなかった。それで、教育勅語のようなものが必要とされたという経緯があります。

そのことと、明治30年代以降、地域政策の展開と神社政策が結びついていて、それゆえにこそ、人工的な神格化が加速していくこととは別です。一つは、明治天皇が亡くなり、明治神宮になったことも大きかった。記憶があいまいで申し訳ないんですが、森銑三のエッセイに、我々世代にとって明治天皇は身近な存在であり、だからこそ日常的なエピソードをもっと読みたいみたいなことが書かれてあったと思うのですが、それは少し後の世代と違うわけです。

このあたりは難しいところですね。戦前の宗教政策も、政府が気に入らないもの(とくに大本など)を弾圧したという点を除けば、神道、仏教、キリスト教の相互理解を深めるための集まりをもったり、現代につながる重要なこともやってるんですよね。だから、それをうまく発展させて、普遍的な倫理のようなものを原理としてとりあえず立て、そこから具体的な解釈をかえていくという方向に行けたかもしれない。というか、今でも出来るかもしれない。でも、日本の宗教伝統は、鎌倉仏教的に庶民の手の届く所への目配りもすごく上手に発達してきたため、キリスト教の啓蒙主義下での思想展開のような形では発達して来なかった。だから、特別な訓練を受けた人(修行者や学者など)以外、宗教思想を議論するというのは習慣的に馴染まないし、一昔前だったら、理屈っぽいで片づけられてしまいました。そういう中では、道徳の教科書作りは難しいですね。杉原さんがやろうとしたことはそういうことです。多分、あの人は僧籍か、神社の神主だか、どっちかの資格を持っていたと思います。

なお、ここで書いたことは杉原さんの本にほとんど拠っていません。今、釜石にいるので、まったく私の記憶だけで書いています。

日本の神道・仏教と政教分離―そして宗教教育日本の神道・仏教と政教分離―そして宗教教育
(2004/10)
杉原 誠四郎

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日本の宗教教育と宗教文化日本の宗教教育と宗教文化
(2004/10)
杉原 誠四郎、貝塚 茂樹 他

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