つらつらと、稲葉さんの「「労使関係論」とは何だったのか」とは何だったのか読み返しているうちに、中西先生なんだなあという漠然とした感想を持ちました。私も基本的には国家論は大事だとは思うのですが、現在の趨勢を見ていると、手垢のついた福祉国家論を繰り返すだけのレベルでは、現代の問題に応えることは出来ないということだけは明らかなように思います。私は前にも書きましたが、一橋・成城スクールの国家論を高く買っているのですが、それを超えるものもなければ、それと対峙するものもない、という非常に寒い状況です。それにイギリスだって、T.H.マーシャルやハルシーを読めば、一つの国家論ですよ。でも、そういうものと四つに組んだ国家論というのは、あんまり知らないんですね。私は昔から国際比較に対する懐疑派なんですが、外形的にだけとりあえず、数値を比較しようという便宜主義が嫌いということに尽きます。でも、人文社会科学の基本的な方法として比較が重要であることは大前提だと思っています。

国家論もまた、一つ二つの国とのディープな比較研究が必要だと思います。ただ、この比較は明示的に出ていなくてもよい。具体的にどういう事かと言えば、自国での問題意識を持ちながら、他国(この場合、日本)を研究する外国人研究者の視点は自ずと国際比較の視座を備えているでしょう。逆に、外国研究をやっていた日本人が日本の研究を始めると、同じような現象が起きるのではないか、という期待もありますが、ほとんど期待はずれです。その理由は何かというと、多くの人が外国語よりも日本語の資料が読むことの容易さに堕落するのです。資料読みは日本語が出来れば出来るというようなものではありませんが、そのレベルの研究者が多いのも残念ながら事実です。もちろん、例外もあって、高橋克嘉先生のイギリス研究は、日本の問題を前提に置きながら、同時代の小池先生の研究を批判的に検討し、イギリスの問題を読み解くという素晴らしい例でした。

で、もう一つ稲葉さんの論稿を読みながら思ったのは、あんまり先行研究を一生懸命読み込み過ぎると、ダメだなということでした。というか、正確に言うと、ある時代に書かれた先行研究はその時代の問題意識を反映しているのです。だから、それは現代とは異なっているという意味です。だから、そうした研究は歴史資料という視点からも読み込みながら、相対化して、さらに現代の問題意識から照射するという作業が必要になります。これも10何年やってきて、ようやく最近、そういうことかと分かりました。

今、社会政策論を考えるにあたっては、明示的に出すかどうかは別として、日本の「社会」をどう捉えるか、「国家」をどう捉えるか、ということは避けて通れませんね。「社会」も「国家」から独立していませんから。私は稲葉さんとは違って、一般論としての国家論を進めることにはあまり興味がなく(抽象性の高い国家論自体には興味はありますが、自分でやる気はないという意味)、やはり、明治以来の日本国家を考えたいと思っています。そうなると、明治維新から世紀転換期くらいまでは準備期間で、明治30年代からかなと考えています。私は日本史の人たちが最新で言う日露戦争も総力戦に近い意味を持っていたというテーゼを重視していて、そこから高度成長までを一つの時期として捉え、その後の時代ということで現代までを考えたいと今のところは思っています。

労働問題研究は私はもうとりあえずの義理は果たした気持ちなので、あとは社会運動の歴史を労働運動をいったん切り離して考えてみるということが必要かなと思います。震災以降のNPOなどの動きも含めて。あとは国際運動的な側面も必要ですね。とくに社会運動の方は、開発国への援助、NGO関係などとの関連も押さえたいところです。その延長線上に宗教も考えざるを得ないでしょうね。まあ、吉田久一先生も最後は仏教に行ったし。ただ、ここは大谷さん、黒崎さんや稲葉圭信さんたちの一流の研究蓄積があるので(震災以降、精力的)、吉田先生よりは私たちの方が有利ですね。

でも、一本くらいは思想的なものも整理するために書かないとダメかな。

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