さわさんからコメントを頂き、いろいろと考えてみたけれども、現代の社会でもトレードとか、プロフェッションがなくなったわけではなく、むしろ、それ以外の「市民」というような評価軸が重要になってきたのではないか、と思えてきた。

たとえば、カウンセラーの国家資格化についての運動を展開している人たちがいる。国家資格化が達成されると、社会的認知度があがり、社会的権威があがる。そういう意味では、今でも、専門職の資格というのは決定的に重要な意味を持っている。

実際にはよく知らないけれども、私の印象の中のイギリスは不思議な国で、プロフェッショナルを重んじる半面、アマチュアリズムも大事にする。プロということに対する敬意とアマチュアに対する敬意が並立する。日本ではアマチュアというと一段下に見られがちだが、向こうではアマチュアの独創的な視点を公平に評価するのではないだろうか。そういう世界では、トレード的な世界が崩れにくいような気がする。

1950年代ごろには労働組合の一つの理想はトレード組合であった。それがない日本は遅れていると考えられてきた。しかし、実際にはトレードの伝統こそが旧世界を継承していたようである。二村先生はこのトレードユニオンの伝統がないことが、日本の企業別組合を生んだという説を唱えた。この説は一般に結構、浸透しているらしい。そうすると、日本はトレードの感覚の薄い国だったのだろうか。

そこで思い出したのだが、T.H.マーシャルの「職人的世界」から「市民的世界」へという構想を日本でおそらくは別の文脈から東條由紀彦さんが論じているということだ。東條さんは、日本にもトレードのようなものはあったと主張している。たしか、1880年代から90年代にかけてはそういうものを壊した明治政府のやり方に反対しているものもあったような気がするし、他にも友子はその典型的な事例ではないかと思う。だが、全体的にはいまだ証拠不足の感がなきにしもあらずで、その点では二村先生の批判もむべなるかなという気がする。

ところが、まったく実証的な根拠があっていうわけではないけれども、私自身はというと、この見立ては正しいのではないかと直感的に考えている。昔、なんかのエッセイで最近は顔でその人の職業を判断することが難しくなったというようなことを読んだことがあるような記憶があるが、定かではない。ただ、こういうことは一般にもよく言われそうだ。現代でも自分の仕事を最大のアイデンティティとする人は多いだろうが、それが他人には見えにくくなったということだろうか。とにかく、そういうあやふやな根拠しかないが、しかし、何か重要な問題だと思う。とはいえ、考えても謎が深まるばかりだ。

その次に出てきたものを「市民社会」と理解してよいかどうかは判断の分かれるところだろう。私は「市民社会」という言い方を非常に警戒している。正直、何を意味するのかよく分からない。だが、「市民」という概念自体が重要なことはなんとなく分かるので、このこともまた、継続して考えることにしよう。
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