2014年05月07日 (水)
濱口先生からお叱りのエントリをいただいたのですが、いくつかの点で疑問がありますので、書いておきます。まず、定期昇給が新規一括採用とほぼ同時期の第一次世界大戦の時期に出現した方というのはよく分かりません。誰の説かにわかに思い出せないのですが、私が見た限りでは、明治30年代の紡績会社の資料にも「定期昇給」という言葉はあります。ありますが、これは一般に公開された資料ではないので、措いておきます。紡績職工については明治時代から定期昇給があったのは定説です。これは中小でもあったんじゃないかなと思います。それから、日本鉄道の職員の給与を眺めていても、定期昇給はあったと思うんだけどな。あとは中西洋先生の長崎造船の研究を見ても、職工も含めて定期的な昇給があったことは推測されています。
それと、私はよく知らなかったのですが、戦時期に中小企業で定期昇給が広がったというのが通説なんですね。恥ずかしながら、ちょっとどういう資料を見れば、そういったことが確認できるのか、にわかに分かりません。わずかに分かりそうなのは解散する直前の総同盟の機関紙か何かですかね。戦時期の資料では「中央賃金委員会議事録」というのがあるんですが、このなかにたしか中小企業だったと思いますが、生活を考えて年寄には賃金を多めにするという年功的慣行があるというようなことが書いてありました(手元にないので確認できないのですが)。とはいえ、昇給がどのような方法でどういったタイミングで行われていたのかを知る資料はないんです。案外、中小でも戦前にもあったかもしれませんよ。
とりあえず、濱口先生の論点と関わるところで言うと、
1) 新規一括採用と定期昇給は多分、あんまり関係ない。
2) 定期昇給がどれくらい広まっていたのか、あるいはいなかったのか分からない。
というのが私の暫定的な見解です。ただ、明治の資料の印象だと意外とあったのかなとも思います。
戦時賃金統制では、1939年の賃金臨時措置令において賃金増額はいかんと言っていますが、1939年9月18日時点で既に定められていた基準でならば、昇給は認められていました。これは生活給思想とまったく関係ありません。
賃金臨時措置令では「基本給」と「賃金基準」の二つを見なければなりません。原典にあたって検討したいという篤学の士は『九・一八停止令』をどうぞ。面倒ですが、カナを平仮名にかえて、漢字も少し平仮名にして引用しましょう。基本給の定義は「定額賃金における定額給または請負賃金における保証給もしくは単位時間給」で、賃金基準というのは「奨励加給、手当、実物給与もしくは命令をもって定むる賞与以外の賞与または請負賃金制における請負単価、請負時間、歩合もしくは算定方法」を意味します。これを読んで、直ちに全部理解できるのはちゃんと古典的なテキストから賃金の勉強をした人だけです。
その前に大前提なんですが、賃金臨時措置令で上げていいと許可しているのは個人の能率が上がった場合、それを反映させないのは生産政策としても不合理だから、上げてもよろしいといっているのであって、戦後のベースアップの代替策として賃金カーブ維持分という意味での定期昇給とはまったく意味が異なります。念のため。
ざっくり言って、「定額賃金における定額給」というのがおそらく現代の皆さんが想像される基本給です。単位時間給は普通の時給です。それから、請負賃金というのは出来高給のことです。請負賃金における保証給というのは、入りたてで仕事がうまく出来ない人に最低限、これだけは保証しようということで1920年代に始まった制度ですが、徒弟賃金より低い。なぜなら、これは出来高給で稼ぐ分とトータルでの賃金だからです。あまりに出来ない人を救済しようという仕組みなので、熟練工にはあんまり関係ない。「奨励加給から賞与」まではざっくり無視していいです(厳密に言うと、このうちのいくばくかを「定額賃金における定額給」に含めた額が現在の基本給です)。で、問題は請負賃金なんですね。これも単価から何から変えてはいけないと言っています。これも腕が上がったら変更していいと言っています(11条)。定額賃金は一般的に年功的運用になりがちですが、請負賃金はそうではありません。年功賃金=初任給+定期昇給に変わっていったというならば、請負賃金から定額賃金に変わっていったということを示さなければなりません。しかし、賃金臨時措置令や賃金統制令の中にはそのような変化を促す仕組みは組み込まれていません。
賃金臨時措置令は時限立法ですから、その後、第二次賃金統制令が出来ます。そこで総額制限方式が出ます。総額制限方式というのは戦後の「ベース」のことで、平均賃金を変えてはいかんという原則です。むしろ、総額制限方式は厚生省による賃金制度介入の否定の意思の表れです。
濱口先生がおっしゃる生活給思想としては「標準賃金」が一応ありますが、当時から実行力がないのにどういう意味があるのかと言われており、厚生省の役人の答弁は方針です、ということでした。この後、「賃金形態ニ関スル指導方針」というものを出して、厚生省はコンサルのようなことをやります。この「指導方針」はたしかに請負賃金よりも定額賃金への移行を促していました。ただ、厚生省のコンサルによって賃金制度を変えた企業はほんのわずかです。ですから「戦時賃金統制は、この生活給思想に基づいて実施されたものです」(『若者と雇用』87頁)と言われると、そんなことはないということなのです。ちなみに、1930年代の人事担当者たちは出来高給か職務給を工夫して改良したいと考えていました。
ここから先は説明するのがしんどいので、戦時賃金統制について知りたい方は、人に分かってもらいたいという気持ちが欠けていて申し訳ない作品ですが、昔書いた「戦時賃金統制における賃金制度」をご覧ください。
ちなみに、請負賃金(出来高給)が消えていくのは戦後のことです。これがなぜ起こったのかはよく分かりません。いろんな研究者と議論したことはありますが、答えは知りません。ただ、今の私は、インフレで賃金制度が改訂されまくるから、出来るだけシンプルな定額賃金(月給)に収斂したのかなと想像しています。ここのところに関心がある方は『日本の賃金を歴史から考える』の第5章がそのテーマですので、ご一読をお願いします。最後、宣伝で、すみません。
それと、私はよく知らなかったのですが、戦時期に中小企業で定期昇給が広がったというのが通説なんですね。恥ずかしながら、ちょっとどういう資料を見れば、そういったことが確認できるのか、にわかに分かりません。わずかに分かりそうなのは解散する直前の総同盟の機関紙か何かですかね。戦時期の資料では「中央賃金委員会議事録」というのがあるんですが、このなかにたしか中小企業だったと思いますが、生活を考えて年寄には賃金を多めにするという年功的慣行があるというようなことが書いてありました(手元にないので確認できないのですが)。とはいえ、昇給がどのような方法でどういったタイミングで行われていたのかを知る資料はないんです。案外、中小でも戦前にもあったかもしれませんよ。
とりあえず、濱口先生の論点と関わるところで言うと、
1) 新規一括採用と定期昇給は多分、あんまり関係ない。
2) 定期昇給がどれくらい広まっていたのか、あるいはいなかったのか分からない。
というのが私の暫定的な見解です。ただ、明治の資料の印象だと意外とあったのかなとも思います。
戦時賃金統制では、1939年の賃金臨時措置令において賃金増額はいかんと言っていますが、1939年9月18日時点で既に定められていた基準でならば、昇給は認められていました。これは生活給思想とまったく関係ありません。
賃金臨時措置令では「基本給」と「賃金基準」の二つを見なければなりません。原典にあたって検討したいという篤学の士は『九・一八停止令』をどうぞ。面倒ですが、カナを平仮名にかえて、漢字も少し平仮名にして引用しましょう。基本給の定義は「定額賃金における定額給または請負賃金における保証給もしくは単位時間給」で、賃金基準というのは「奨励加給、手当、実物給与もしくは命令をもって定むる賞与以外の賞与または請負賃金制における請負単価、請負時間、歩合もしくは算定方法」を意味します。これを読んで、直ちに全部理解できるのはちゃんと古典的なテキストから賃金の勉強をした人だけです。
その前に大前提なんですが、賃金臨時措置令で上げていいと許可しているのは個人の能率が上がった場合、それを反映させないのは生産政策としても不合理だから、上げてもよろしいといっているのであって、戦後のベースアップの代替策として賃金カーブ維持分という意味での定期昇給とはまったく意味が異なります。念のため。
ざっくり言って、「定額賃金における定額給」というのがおそらく現代の皆さんが想像される基本給です。単位時間給は普通の時給です。それから、請負賃金というのは出来高給のことです。請負賃金における保証給というのは、入りたてで仕事がうまく出来ない人に最低限、これだけは保証しようということで1920年代に始まった制度ですが、徒弟賃金より低い。なぜなら、これは出来高給で稼ぐ分とトータルでの賃金だからです。あまりに出来ない人を救済しようという仕組みなので、熟練工にはあんまり関係ない。「奨励加給から賞与」まではざっくり無視していいです(厳密に言うと、このうちのいくばくかを「定額賃金における定額給」に含めた額が現在の基本給です)。で、問題は請負賃金なんですね。これも単価から何から変えてはいけないと言っています。これも腕が上がったら変更していいと言っています(11条)。定額賃金は一般的に年功的運用になりがちですが、請負賃金はそうではありません。年功賃金=初任給+定期昇給に変わっていったというならば、請負賃金から定額賃金に変わっていったということを示さなければなりません。しかし、賃金臨時措置令や賃金統制令の中にはそのような変化を促す仕組みは組み込まれていません。
賃金臨時措置令は時限立法ですから、その後、第二次賃金統制令が出来ます。そこで総額制限方式が出ます。総額制限方式というのは戦後の「ベース」のことで、平均賃金を変えてはいかんという原則です。むしろ、総額制限方式は厚生省による賃金制度介入の否定の意思の表れです。
濱口先生がおっしゃる生活給思想としては「標準賃金」が一応ありますが、当時から実行力がないのにどういう意味があるのかと言われており、厚生省の役人の答弁は方針です、ということでした。この後、「賃金形態ニ関スル指導方針」というものを出して、厚生省はコンサルのようなことをやります。この「指導方針」はたしかに請負賃金よりも定額賃金への移行を促していました。ただ、厚生省のコンサルによって賃金制度を変えた企業はほんのわずかです。ですから「戦時賃金統制は、この生活給思想に基づいて実施されたものです」(『若者と雇用』87頁)と言われると、そんなことはないということなのです。ちなみに、1930年代の人事担当者たちは出来高給か職務給を工夫して改良したいと考えていました。
ここから先は説明するのがしんどいので、戦時賃金統制について知りたい方は、人に分かってもらいたいという気持ちが欠けていて申し訳ない作品ですが、昔書いた「戦時賃金統制における賃金制度」をご覧ください。
ちなみに、請負賃金(出来高給)が消えていくのは戦後のことです。これがなぜ起こったのかはよく分かりません。いろんな研究者と議論したことはありますが、答えは知りません。ただ、今の私は、インフレで賃金制度が改訂されまくるから、出来るだけシンプルな定額賃金(月給)に収斂したのかなと想像しています。ここのところに関心がある方は『日本の賃金を歴史から考える』の第5章がそのテーマですので、ご一読をお願いします。最後、宣伝で、すみません。
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