連合総研の市川さんから「ストライキ権があるかどうかは組合運動に関しては重要ではありません」というのはいくらなんでも言い過ぎか、あるいは言葉が足りないでしょう、というご指摘をいただきました。そうですね、労使関係を勉強したことがない学生さんへのお返事としてはたしかに少し行き過ぎていたのかもしれません。

2012年の国際労働会議で雇用主側からスト権への攻撃があったことは有名で、労働組合側がそれに対して、団結権・団体交渉権を担保しているのはスト権に他ならない、と主張しているのはまことにその通りです。連合でさえもそこは共通了解になっている、というお話でした。法、権利をめぐる対応としては、まことに労働官僚組織たる連合はまったくお手本通りの正しい主張をしていると言えましょう。

日本国内の話で言うと、戦前はスト権、団結権、団体交渉権、どれも法認されていませんでした。そういうなかで労働組合はストライキを打ったりして、その解決を模索するプロセスを通じて、ようやく交渉のテーブルにつくことが出来ました。そのうちに、労働組合側や争議団が無理な要求をしていない限りにおいては、司法省も内務省(戦前の警察の主管官庁です)も争議を認めるようになりました。実質上はストライキ権が認められるようになったのです。戦後、憲法で団体行動権が明文化されました(これはスト権も含まれます)。しかし、この点だけを強調しすぎると、かえって戦前からの伝統を見失ってしまいます。

たしかに、ストライキ権の有無と、ストライキが行われているかどうかは関係ありません。しかし、ストライキが行われていないという状況は二つに分ける必要があります。ストライキを担保とした団体交渉、すなわち、交渉の切り札としてのストライキです。戦わずして人の兵を屈するは善の善なり、です。もうひとつは、単にストライキを行っておらず、その意味さえも忘れている場合です。

ストライキの重要性は長い間、忘れ去られて来たのではないですか。今年の春闘で関東バスと相鉄がストをやりました。新聞も少しそのことを取り上げましたが、ストライキが交渉の一手段であることが社会的に周知された久しぶりの機会です。その最終手段があるから、団体交渉、労使協議も活きて、抑止効果になる。そういうことも起こり得ます。ところが、連合傘下の組合の一部ではストライキどころか、賃金交渉のノウハウさえも失われかけていたのです。このような状況でストライキに意味があることを、ストライキ権の重要性という教科書的な知識だけで伝えて行けるのでしょうか?

世界には伝統的なストライキとそれを前提にした交渉をやっている国があります。しかし、日本ではどうでしょうか。日本は過去の伝統を継承しているのでしょうか。こたえはほとんど否です。ストライキ権があるかどうかはひとつの基準ですが、さりとて、今の組合活動が市川さんがおっしゃるように、団結権・団体交渉権の担保としてのスト権という形になっているか。相鉄などの例外はあるにしても、大半はそうではないのです。団結権、団体交渉権、団体行動権を担保しているのはいずれも憲法です。そこに相互関係はありません。全部一律に憲法です。

もしストライキ権で戦うとしたら、公務員労働だけです。ILOに何度も勧告されながら、まったく無視している日本政府。これはいくらでも戦う余地があります。しかし、先にも書きましたが、公共労働は一回失敗しているのです。それは単に敗れたというだけにとどまらず、大衆からも味方されなかった歴史があります。まずは多くの人を味方に引き入れなければなりません。今回の震災はそういう意味ではチャンスでした。震災からこの方、一番、割を食ったのは地方公務員です。被災地だけではありません。もう解除されましたが、給与も一時的に下げられていました。

そして、何より今なお、多くの公務員が被災地に派遣されています。岩手、宮城、福島の沿岸地域以外ではほとんど意識的に遠ざけられている観のある震災ですが、公務員だけは少なくとも、派遣されている人たちと彼らを送り出している職場はいまだにその渦中にいます(もちろん、家族も)。その彼ら、彼女たちは大変な労働条件で働いている。しかし、労働組合はその支援もしなかったし、する気もない。自治労や自治労連、連合、全労連だといっている場合ではないのです。本当はここを起点に公務員労働に対するイメージを一新し、それを橋頭堡にスト権まで行けば良かったのです。でも、始まってさえいません。これだけ懸命に働いている人々を助けず、しかも、千載一遇のチャンスを活かさないとは、ほとんど言葉を失います。

もちろん、国際会議で攻勢を受ければ、それに応じなければならない。その意味での連帯は重要でしょう。しかし、国内に関して言えば、今は何も心配する情勢はありません。経営者をどんなに最悪の人間たちであると想定したとしても、彼らに憲法を変えて、団体行動権を剥奪するほどの力はないし、そのインセンティブもないでしょう。日本ではストライキを前提にした交渉を戦術的に行っているところが少ない以上、そんなことをする必要さえないのです。日本はILOが公務員のストライキ権を付与せよと勧告しても聞かないし、逆に、民間のストライキ権を剥奪せよと勧告して来ても、多分聞かないでしょう。そんな弾圧する必要もないところにエネルギーを注いで、わざわざいらない反感を買うインセンティブは経営者にありません。まったくの無駄だからです。金持ち喧嘩せずです。

たとえば、半世紀前の労働組合だったら、総評であろうと、総同盟であろうと、昨年度、話題になったブラック企業と徹底的に対決し、ストライキを打ったり、それを支援したりしたでしょう。2013年はそういうことは起きませんでした。かつて生産性運動が始まったとき、月刊総評で、全労会議の和田さんと総評の岩井さんが対決しました。岩井さんは絶対反対、和田さんは反対したくても無理矢理進められるのだから、むしろ、なかに入っていって監視すべきだということで、結論は相容れないのですが、しかし、お互いとことんやろうというそういう信頼関係、心理的な同志意識はありました。それに比べれば、今は組織は同じでも、労働者は連帯していないと言わざるを得ない。

そろそろまとめましょう。日本では民間企業ではストライキ権が認められています。これを規定しているのが憲法なので、今の時点では剥奪される心配はまったくありません。剥奪される心配もないので、それを阻止するために連帯する運動も生まれません。公務員はストライキ権が認められていません。当事者は問題にしていますが、それ以外のところはどう発言しているにせよ、実質的にはサポートできていません。これだけひどい状況に置かれている公務員を助けない人たちに期待をするだけ無駄でしょう。今後はひょっとしたら、ILOの外圧を受け入れる形で公務員改革のなかに盛り込まれるかもしれません。でも、そのようなことが起こったからといって、かつての総同盟や総評のような、ストライキを切り札とした交渉は行われないでしょう。ストライキ権を獲得しても今のままじゃ、うまく使いこなせないんじゃないでしょうか。

ただ、争いはつづめると、裁判になります。ですから、ストライキ権が認められていれば、裁判を通じて、支払わなければならない損害賠償などを避けられるでしょう。それはそれで大事なことです。しかし、本当に最後はとことんまで戦う覚悟を決める人にはストライキ権の有無は関係ないでしょう。ストライキ権が付与されるよりも、かえってそういう覚悟こそがストライキの重要性を伝えて行くように思います。むしろ、今は権利が保障されていることに安住しているのではないでしょうか。

とはいえ、今年の春闘も昨年末の時点ではほとんど私は絶望していましたが、現場の労働者たちの声で息を吹き返しました。これから課題は山積みであるとはいえ、うれしい誤算、頼もしいことです。ストライキについても、あるいは公務労働についても、私の考えがみな吹き飛ぶようなエネルギーを労働運動が発揮してくれることを祈るばかりです。
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