先日、稲葉さんの本のエントリを書いたけれども、ちょっと書き方がレトリカルに過ぎたというか、そのせいでいらぬ誤解を生んでいる気がするので、説明を付け足そう。

土台、学者の魂、なんて言い方が時代掛かっているし、そもそもそんなもの持ち合わせている人などほとんどいないので、客観的に見ると、そんな基準を持ち出すのもどうかという感じだ。ただ、ここで言っている学者の魂を持った人というのは、学会誌に論文を掲載するという程度の低いものではない。そんなことはおおよそ誰でも出来る。どこの組織に属してもデスクワークに従事すれば、書類の書き方を覚えるだろう。それと異なるところはほとんどない。その作業に疑問を持たない人ならば、無条件に出来る。その程度の基準だ。

私は前のエントリで書いたとおり、あの本の読者を想定して、読み物として楽しめばいい、と書いたわけだが、あの本自体はそれ以外の効用もある。実は、『社会学入門』は専門研究者としてこの先、人生を歩みたいと考える若者が読んでも有意義な内容を含んでいる。たとえば、稲葉さんが経済学として合意が出来ているとしたものはたしかに大いに世の大勢になっているものだが、どの世界に少数派はいるもので、稲葉さん自身それですべてを語れないこともよく分かっている。にもかかわらず、それを正統派として描くというのは親切である。それは二つの意味がある。

一つは、この本では何度もマルクスが出てくるが、ただの一度も経済学者として登場しない。まったく何にも予備知識を持たない人が読めば、マルクスは社会学者だと思うかもしれない。そういう意味では某社会政策学者たちに読ませたいくらいだ(笑)。流行に機敏な彼らが大好きなのはイギリス。彼の地の社会学の泰斗・ギデンズ大先生もマルクスを社会学者として取り扱っているから、この処置は大変時流にあっている。実際にヨーロッパの社会史の背景にはマルクスがあったわけだし。もう一つは、ハイエクが嘆いたように今や不必要なくらい社会科学者は経済学者に気を遣っている。そのメインストリームをしっかり抑えた上で、社会学を描くというのは心憎い演出だ。

何れにせよ、こうやって経済学を簡単に捉え、それを参照基準にすることで、社会学が持っている特徴をよく理解しやすくなっている。とりわけ、複雑な理論ではなく、単純な理論が持っている説明力の魅力も分かりやすい。モデルという考え方は、社会科学全般でウェーバーの理念型論が広く受け入れられていたわけだから、それでごり押しすることだって説明できたはずだが、そんなことをしたら、無駄に難しくなるのはやる前から分かっている。そういう軽重のバランス感覚は素晴らしい。

最初の二つの章では社会科学の中の社会学という枠組みを提示した上で、社会科学のメタスキルを語っている。もう一つ、歴史研究に対する位置づけもその限りでは大変適切なものである。この基礎中の基礎をこれだけ簡単にポイントを外さずに、学界の大きな流れにも敏感に、説明するというのは誰にでも出来ることではない。以上が「学問を尊敬しつつ」の一語の含意である。わざわざ褒めるのも僭越だ思ったので、書かなかった。言うまでもなく、これだけ分かりやすいのは、これだけ書いた本人がよく分かっていることを意味する。

ただ、いわゆるプロの学者はこの先に実際に作業をする。大量の統計調査を集めてきて計算したり、大量の資料を片っ端から収集し、解読したり、インタビュー記録をノートに起こし、時には貰った資料も使いつつそれを再構成したり、そういう面倒な作業を徹底してやる。たしかに、こうした作業を徹底してやると、全体像を見失いがちだ。資料を読んでいるときの頭の使い方と全体の構成や理論的含意を考えるときの頭の使い方はまるで異なる。

昨今は軽佻浮薄にパワポの報告も増えたが、私が大学院に入った頃の日本経済史の報告は、作成した表と読んだ資料の原文をレジュメに羅列し、出席者が話を再構成するというような具合だった。出席者は誰もどれだけ一生懸命、資料と格闘したか以外、評価するつもりはないようだった。たとえば、こういう人たちと輪読のゼミをやると、いったい、本を読んでいるのか、表を読んでいるのか、分からなくなる。私の見た限り、同世代でこういう能力が高かったのは圧倒的に九大の宮地さんだった。ただし、本人に直接、言ったら、「何を言うんですか。僕は理論派ですよ」と驚いていた(笑)。

よく言われることだが、欧米の歴史研究者は日本人より概観することを好む。よく言えば、パースペクティブが広く、悪く言えば、史料の読み方が杜撰だ。向こうの論文はタイトルが100年単位で出てくることも稀ではないが、その間の資料を全部丁寧に読めるわけがない。ただし、資料を読むことにも訓練がいるが、こういうパースペクティブを持つためにも訓練がいる。そういう訓練が日本の歴史研究者は弱いというのはよく指摘される。私自身もハンター先生とゴードン先生と直接、そんな話をしたことがある。ジャコビィー先生も同じことを言っていたと間接的に聞いた。まったくその通りだと思う。

また、プロの歴史研究者の研究を読むと、せっかくよい資料をよく読みこんでいるのに、なぜ、この下らない学説(往々にしてその人がお世話になった先生)をそのまま鵜呑みにするのかということが今でも起こる。その昔、日本経済史研究がまだ封建時代であった1970年代前半ごろまでは、かつての武士の戦いの如く慇懃に、我こそは○○派であると名乗りをあげてから、論文を始めるのがルールであった。

そういう愛すべき欠点があるにしても、なおかつ、歴史研究者は信頼に足ると私は思っている。なぜなら、やはり歴史研究者の真髄は資料をどれだけ読んだかで決まると古風に私も考えているからである。そもそも、資料は頭だけを使って読むものではない。言い方を変えると、字面だけを追っているわけではない。私はその筋の訓練をちゃんと受けたわけではないが、近世史とかになると、史料の保存具合、それから使われている文字の色、紙の質、そういう視覚的な情報もすべて重要になる。だから、原史料を読むのと、復刻された史料を読むのは違うことは経験的にみんな、知っている。

調査研究者が現場という原点に戻るというのは、私は別に文書資料だけでは分からない、実際に聞いてみないといけない、というような通俗的な意味ではないと思っている。実際に、そういうことを言う人であっても、調査のどういう点がよいかを語っているときは、インタビューの話だけを取り上げるわけではない。それは私には経験もないし、まったく身についていないものだけど、多分に感覚的なものだろうと思う。

そういう作業は実際は楽しいことばかりではない。私が稲葉さんをプロフェッショナルにはなれなかったと書いた意味は、そういう何かしらの地道な実証的作業(統計、歴史、調査)に本拠地を持っていないということである。にもかかわらず、稲葉さんはその大切さを十二分に知っている。この話を読んで、時間を経ずして、ポランニーの暗黙知のことを言っているだけだと総括した人は、私の書いた真意を理解するのは時間が掛かると思って間違いない。

なお、私が書いたプロフェッショナルというレベルは、こうした体験による智慧と理論に対する洞察力を兼ね備えた人である。
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