2014年11月30日 (日)
ついさっきまでNHK教育の臨床宗教師の番組を見ていました。震災の年、第3回宗教者災害支援連絡会とその後のツイッターで議論したことを思い出しました。というか、あれ以来、ずっと心にひっかかっていたのです。
番組を見て、当時、心配していたことは間違ってなかったという感想と、思っていたよりも大丈夫かなという感想が両方ありました。臨床宗教師というのは、何をする人かというと、簡単に言えば、終末期医療において医者が立ち入れない領域、つまり死について、宗教者がケアをするというのが基本的なコンセプトです。
私はあのとき、古澤さんに近い立場から反対の立場だったんだけれども、今回はしばらくは意外といいかもしれない、という風に思いました。私が反対したのは、そんな確固たる育成法も確立されてないのに時期尚早すぎるということでした。古澤さんは、それに加えて、そうした状況で相手と関わることで、かえって相手を傷つけることになりかねない、ということを心配されていました。まあ、これはケア一般に当てはまることですけどね。
今回、中心に取り上げられていた私と同世代のお坊さんと、ガンを克服したお坊さんのお二人が出ていらっしゃいました。後者は、自分の経験が相対化できていなくて危ないなと思いましたが、それはケア一般レベルで起こる問題なので、まあ、措いておきましょう。私がああそうかと思ったのは、今は宗教者でさえも「死」について確信がないということです。この点は高木慶子さんが仰っていたことと逆でしたが、私はその方がかえってよいと思いました。確信がないということは、謙虚足り得るということだからです。
実際問題、終末期医療に携わって来たベテランのお医者さんの方が、よほど患者とのコミュニケーション能力はすぐれているでしょう。そのことは彼らもよく分かっている。でも、宗教者という立場が人々の安心をどこかで引き出す可能性を知っているから、ちゃんと仲間としてみんなで成長して行こうとする。私はたぶん、上から「死」についてアドバイスできるよりは、一緒に分からない中を悩んでいることこそが、よりいっそう、せめて背実であろうという姿勢を生み、相手との間の距離を少しでも縮めるのではないか、と感じたのです。これが思ったより、よいかもしれない、と思った一点。
他のケアも実際は同じことで、よいケアとは何か、ということは一般論では言えない。あるべきケアラーも、臨床宗教師もないけれども、そこを目指して行くという対象ではあり得る。それでよいのだと思います。
潜在的ニーズ、それから、労働予備軍がたくさんいると言っても、爆発的に拡大ということにはならないと思います。指導者もそんなにたくさんいるわけではないでしょうし。この規模でやっているうちは、個々のケースで個人の力量による問題はあっても、組織が原因としてはまだ大きな問題は起きないような気がします。ただ、これが大きくなって行ったときに、質的な保証はどうするのか、といったような問題は出てくるでしょうね。古澤さんはそういうことを見込んで、反対されていたんだと思いますが。
一番危険なのは、潜在的ニーズがあるがために、少し制度がうまくいっている事例が見え出すと、ニーズが過剰な期待に変わり、現実(臨床宗教師たちのレベルなどの実態)を追い越していってしまうことでしょう。構造はみんな同じで、バランスが重要なんだと思いますが、「死」と「それまでの人生」というもっとも根本的でセンシティブな問題ですから、過剰反応も他以上により一層引き起こしやすそうです。いずれにしても、今後も注目して行きたいです。
番組を見て、当時、心配していたことは間違ってなかったという感想と、思っていたよりも大丈夫かなという感想が両方ありました。臨床宗教師というのは、何をする人かというと、簡単に言えば、終末期医療において医者が立ち入れない領域、つまり死について、宗教者がケアをするというのが基本的なコンセプトです。
私はあのとき、古澤さんに近い立場から反対の立場だったんだけれども、今回はしばらくは意外といいかもしれない、という風に思いました。私が反対したのは、そんな確固たる育成法も確立されてないのに時期尚早すぎるということでした。古澤さんは、それに加えて、そうした状況で相手と関わることで、かえって相手を傷つけることになりかねない、ということを心配されていました。まあ、これはケア一般に当てはまることですけどね。
今回、中心に取り上げられていた私と同世代のお坊さんと、ガンを克服したお坊さんのお二人が出ていらっしゃいました。後者は、自分の経験が相対化できていなくて危ないなと思いましたが、それはケア一般レベルで起こる問題なので、まあ、措いておきましょう。私がああそうかと思ったのは、今は宗教者でさえも「死」について確信がないということです。この点は高木慶子さんが仰っていたことと逆でしたが、私はその方がかえってよいと思いました。確信がないということは、謙虚足り得るということだからです。
実際問題、終末期医療に携わって来たベテランのお医者さんの方が、よほど患者とのコミュニケーション能力はすぐれているでしょう。そのことは彼らもよく分かっている。でも、宗教者という立場が人々の安心をどこかで引き出す可能性を知っているから、ちゃんと仲間としてみんなで成長して行こうとする。私はたぶん、上から「死」についてアドバイスできるよりは、一緒に分からない中を悩んでいることこそが、よりいっそう、せめて背実であろうという姿勢を生み、相手との間の距離を少しでも縮めるのではないか、と感じたのです。これが思ったより、よいかもしれない、と思った一点。
他のケアも実際は同じことで、よいケアとは何か、ということは一般論では言えない。あるべきケアラーも、臨床宗教師もないけれども、そこを目指して行くという対象ではあり得る。それでよいのだと思います。
潜在的ニーズ、それから、労働予備軍がたくさんいると言っても、爆発的に拡大ということにはならないと思います。指導者もそんなにたくさんいるわけではないでしょうし。この規模でやっているうちは、個々のケースで個人の力量による問題はあっても、組織が原因としてはまだ大きな問題は起きないような気がします。ただ、これが大きくなって行ったときに、質的な保証はどうするのか、といったような問題は出てくるでしょうね。古澤さんはそういうことを見込んで、反対されていたんだと思いますが。
一番危険なのは、潜在的ニーズがあるがために、少し制度がうまくいっている事例が見え出すと、ニーズが過剰な期待に変わり、現実(臨床宗教師たちのレベルなどの実態)を追い越していってしまうことでしょう。構造はみんな同じで、バランスが重要なんだと思いますが、「死」と「それまでの人生」というもっとも根本的でセンシティブな問題ですから、過剰反応も他以上により一層引き起こしやすそうです。いずれにしても、今後も注目して行きたいです。
スポンサーサイト
この記事へのトラックバック
| ホーム |