濱口先生が私の前エントリを枕に「竹中理論はなぜ使えないのか」ということを書かれているのですが、もう少し内在的になぜ今、読んでもあまり意味がないのか、ということを考えてみたいと思います。まあ、しかし、私は竹中恵美子を読もうとは思っても、自分から『家父長制と資本制』を再読しようとは思わないですし、大沢さんの『企業社会を超えて』もそうですね。今、ちょっと読み返してみたら、やっぱり古いなと感じました(竹中先生ほどではないにしても)。今、読むなら、やっぱり『生活保障のガバナンス』ですよ。これ、大沢先生の中で一番じゃないかなと思います。

でも、アカデミックなトレーニングをするという意味では、竹中先生の方がよいと思いますよ。濱口先生も言及されている大沢さんの竹中批判については完全に的外れで、その昔、大河内先生の型論が批判されたときとまったく同じパターンの理解不足ですから、これを仮に論争と呼ぶならば、完全に竹中先生の勝ちです。要は、特殊というのは抽象次元の問題で、すべて現象は特殊なのであって、理論をやっている人は現象の対極として普遍を考えますから、特殊という言い方をするんですね。大河内先生のときは日本特殊論、竹中先生のときは女性特殊論というのがひっかかったわけです。そういう発想自体がそもそもどうなの?というのは問いかけてもいいですが、あまり生産的にはなりませんよ。読みやすさの問題では、理論志向かどうかというところもありますね。

まあ、そんなつまらないことはどうでもいいんですが、なぜ竹中先生の議論が今一つ、私に響かないかと言うと、マルクス主義の用語ということだけじゃなくて、ちょっと別の次元の話なんです。竹中先生はその当時の労働問題研究は製造業の労働者を問題にしていたのに対し、そこに女性労働者の問題を押し込もうとされたんですが、そのときに設定枠組みを根本から鍛え直すというよりは、もとの資本制モデルを近代家族に拡張したんですね。そこは建て増しじゃなくて、建て替えなきゃいけなかったんじゃないの、というのが私の感想なんですよ。

近代家族というのは、産業化によって人口増加が起こって近代都市が誕生し、そこに登場してくるというのが一般的なストーリーなんですが、これで語っちゃっていいのは1920年代前半くらいまでで、ミルズのホワイトカラーも1950年代には出ているし、要は工場労働者だけで都市もそこの近代家族も語れないんですね。それと同時に農村も入れれば、さらに日本全体を語れないのも明らかなんですよ。まあ、竹中先生も不生産労働の増加という形で第三次産業に触れたりもしているんですが、じゃあ、それで大きな枠組みが組み替えられたかと言われれば、やはりそれはなされていないんですね。

だから、その延長線上にある竹中先生のアンペイド・ワーク論も、ほとんど興味がないんです。アンペイド・ワーク論はある特定の運動においてはすごく重要で、その限りにおいて、というか、そのアクチュアルな国際的な展開とあわせて理解すべきですが、理論的に探究することについては展望が開けないんじゃないかなと思っています。実際は、どう測定するかという技術的な問題なんですよ。もっとも、そのどう測定するかということは、思想と無縁ではないので、そこから切り込むことも出来ますが。

そもそも雇用関係をつきつめて考えると、労働の対価が賃金でなければならないということ自体近代の発想であって、必ずしも雇用関係の必要条件じゃないんですね(もちろん、濱口先生のように政策志向で労働問題を考えるならば、対価としての賃金は所与の条件です)。そこまで行くと、雇用関係そのものの問い直しにもなります。この点は実は森建資先生の『雇用関係の生成』木鐸社の主テーマで(実はジェンダー問題もサラッと触れられていますが)、様々な社会関係を考察して行くことになるでしょう。そうすると、ジェンダーの問題もあるんだけど、福祉的就労や、ボランティア・ワークの問題をどう考えるのか、それと雇用労働はどう違うのか、同じなのか、雇用労働の中で自主性をもって仕事をすること(自発性)とボランティア精神はどう違うのか、といったことをどんどん問いかける必要が出て来るでしょう。そこまで来ると、ことは労働そのものの考察になりますから、今、ジェンダーを仮に「作られた社会関係」と定義するならば、具体性が高すぎて、理論的につきつめて考えて行くと、捨象することも可能だろうと思います。

マルクス主義は左派運動的には支配・被支配と独立や自由、自主性の問題と密接に歩んで来ました。でも、その問題を突き詰めていくと、どちらかというと、権力の問題になって、政治学や政治哲学(ないし思想)の方が得意分野なんですよね。男性社会の無意識のなかに隠された権力性みたいな話なんですが、それを批判するんであれば、別にマルクス主義である必要はどこにもなくて、スーザン・M・オーキンやマーサ・ヌスバウムのようなリベラリズムの立場からの批判もあり得るわけです。むしろ、ラディカル・フェミニズムとマルクス「経済学」系の労働問題の接合って、そんなに相性よいんかいなという疑問もあります。

西洋文化圏の人たちが西洋思想を乗り越えようとするのは分かるんですが、本当は日本で同じような仕事をやって欲しいんですよね。たとえば、丸山眞男の政治思想史、あるいはそのフォロワーたちを批判的に乗り越えるようなフェミニズムの本とかです。丸山に「女性」が出てこないと指摘するだけでは不十分で、それを入れたら、どういう風に彼の議論を組み替えることが出来るのかというところまで示して欲しいのです。まあ、ないものねだりをしても仕方ないので、次は岡野八代先生の『フェミニズムの政治学』とリベラリズム系のフェミニズムを比較して勉強しますかね。
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