細井が描くように、いわゆる「女工哀史」的な歴史が紡績業になかったわけではない。おそらく、そのイメージを決定的にしたのは戦後の近江絹糸争議であろう。後世の人は紡績会社というのは皆、ああいう風に労務管理をしていたのだろうと思ってしまうかもしれないが、近江絹糸の争議が起こった1950年代当時、紡績業界全体は、というより、業界を動かす力を持っていた会社のお偉方は「ああいう管理は困ったことだ」と思っていた。実際の処遇はどうだったのだろう?

 細井は面白いキャリアの持ち主で、数々の紡績工場を転々としている(なお、彼は若くして亡くなったので、実際に務めたのは大正時代である)。やはり、職工として優秀であったらしく、結婚奨励を受けていたという。細井が言うには、有力な仲間6人が同じように次々結婚させられ、その結果若くして世帯もちになったため、貧乏になってしまった。当時の自分は、小説にかぶれて、クリスチャン・ホームを夢見ていたから、応じなかったところ、割の悪い方へと回されたとのことである。

 細井たちに結婚を勧めた人物は「某部長の工務係へ昇進する足場」とするべく、彼らに結婚を推奨していたようだ。言うまでもなく、結婚は優秀な職工の引き留め策だが、ここで注目していただきたいのは「工務係への昇進」である。細井は何気なく書いているが、これはホワイトカラーへの昇進と考えていいだろう。おそらく、「部長」という呼称は「織布部」なり「紡績部」の職工のトップを意味すると推測されるのである。実は、私が研究した富士紡もそうだが、紡績業では割と職工から職員への登用があった。ここが面白い。細井もひとところで職工を続けていれば、現場トップに登りつめる可能性もあったかもしれないのである。

 ちなみに、細井の奥さんも実は紡績職工で、『女工哀史』のなかにも名前が出てくるが、「としを」さんという。戦後に『わたしの「女工哀史」』という回想録を出されている。また、中村政則先生の『労働者と農民』(小学館ライブラリー)にも登場する。彼女のことは何れ紹介するかもしないが、面白いのは自分はどこでも紡績職工として食っていけるという意識を持っていたことである。実際、彼女は『女工哀史』を書いていた頃の細井を食べさせていたのだ。逆に言うと、それだけ熟練工は需要があったと見てよい。

 今の方はご存じないかもしれないが、昔、山田盛太郎というエライ先生がいらっしゃって『日本資本主義分析』(岩波文庫)という本を書き、その中で紡績女工の賃金を「印度以下的賃金」と表現し、それが人口に膾炙していた。かの有名な大河内(一男)先生の「出稼ぎ型」論もこの議論を踏まえている。山田先生の表現自体、おそらく、政治的意図が含まれていたと思うが、長い間、多くの人に実際のこととして信じられてきた。最近の研究では必ずしも簡単にそんなこと言えないというのが研究者の間の共通了解になってきている。繊維産業の賃金についてはハンター先生の『日本の工業化と女性労働』の第6章をまず出発点にしようじゃないか、と私は考えている。あまり高井としをさんのようなエピソード的なことを書いても仕方ありませんが、紡績女工の中には、それなりの賃金を貰っていた人がいた、ということは指摘できる。

 図式的に言うと、一部の優良大企業が先進的な労務管理を実践し、その余裕がないところは、そういう水準に満たない管理をしていたと考えてよいだろう。とはいうものの、実際には、優良な大企業であっても、現在から見るときわめてひどい措置を、意地悪な管理者が局所的に行っていたということはあった。たとえば、衆人の目前で裸にして体罰を加えたり(裸にすること自体、体罰だが)、手紙の検閲をしたり、といったことなどだ。ただし、社会的な規範自体が現在とは違うので、他の個別の事例は相対的に見る必要もある。でも、意地悪な上司がいるという点についていえば、当時の紡績業に限らずおそらくは現代の会社でも見られる現象ともいる。逆に、多少規模の小さい企業の労務管理であっても、家族主義的な管理を行っていたところもあるだろう。ハンター先生の研究の重要な含意は、優良大企業のイメージだけでは、紡績業の全体を捉えられない、特に中小企業は多様である、ということであった。その構造は基本的に戦後まで変わらなかったのである。
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