いやぁ、松田さんの論文を改めて読むと、すごい人だなということがひしひしと伝わってくる。この論文からは国家と社会の関係を考えるときに、非常に大きな示唆を得ることが出来ると思う。

普通は国家と社会の関係を一足とびに考えるんだけれども、ここでは中間組織、すなわち「団体」がその間の媒介項になっている。社会っていったとき、実はとらえどころがない。実際の社会は境界が曖昧だからだ。ところが、形式的な社会、つまり、クラブのようなものであれば、境界がはっきりしている。それが団体である。たとえば、友愛会はfriendly societyの訳である。つまり、社交クラブもまた社会の一種である。

社会を有機体と捉える見方には、簡単に反対を唱えやすい。そんなもの実体がないじゃないかと切り返せるからだ。しかし、たとえば、企業のような組織だと、生物に類似して説明しやすい。実際に伊丹さんはそんな説明をしていたような気がする。これについては面白い話があって、去年、岩井克人先生の授業を聞いていたときに、彼は有機体説は採りたくないと言っていた。それは論理的であるというよりも、ひとつの思想信条(というほど大げさでもないが)の告白という感じであった。

松田論文は、団体が無視し得ない存在であるという舞台装置の上で、法学者たちがさまざまな学説を展開する一幕の劇のようなものだ。まず、団体はなによりまるで一個の人格を有すがごとく行為能力を与えられなければならない。そのためには、ローマ法のKorporation(社団)という擬制人ではダメで、どうしてもゲルマン法のGenossenshaft(団体)である必要がある。そこから国家は団体かという問題から、行政体に話が降りてくる。そして、かの有名な美濃部達吉の天皇機関説が出てくる。天皇機関説ももちろん、国家有機体論を前提にしていて、国家を一つの団体(有機体)と捉え、天皇はその機関のひとつと考えられているのである。

有機体説は実は二つの大きな極をもっている。一つは、ある団体を一つの単位、ときには法人格という形で、人に見立てることがある。この意味で統一体である。しかし、もう一方で、有機体は各機関の自律性が重要になってくる。松田先生はこの二つ目の点を重視されて、国家生命体と国家有機体を分けて考えられている。国家有機体説の方では個々の自律性が重んじられる余地がある。民主制とも親和的である。

この論文のもう一つの面白さは、末弘厳太郎まで行くところだろう。末弘の持っていた法社会学的な観点、すなわち、社会のうちに法源があるという考え方をビビットに抑えている。言い換えれば、実際の「団体」に一つの人格を認めるかどうかの判断の正当性を、社会観察のうちに求めているという言い方をしてもよいだろう。ちなみに、ここらあたりは、稲葉さんとコメントのやりとりをしていたところと関係している。

ただ、望蜀の念と分かっていながら言うと、後藤新平は扱って欲しかった。松田先生は末弘先生の論理から植民地支配についての「朝鮮・中国社会のNorm」の問題に及ばざるを得なかったという論理運びをしているし、論理構成上はそれでよいのだが、台湾の民政官、後に満鉄調査部を作った後藤新平に注目してほしかった。後藤は国鉄一家を唱えた人でもあり、これは日本的経営の非常に重要な一齣なのである。ただ、松田先生は次のように書かれている。
「社会主義」についての紹介は日露戦争以前から存在し、「社会問題」や「社会政策」についての知識はそれなりに広まってはいたが、「社会」を個人の意思や利害の加算的集合とどのように概念的に区別できるのかについて、つきつめた考察はなかなか進まなかった
この文章から察すると、後藤の存在に気づいていないということはないだろうが、理論的な重要性を与えるほどではないと考えられているのかもしれない。まぁ、そもそも法学者じゃないし。しかし、後藤新平は近現代の日本を理解する上での最後のミッシング・リンクである。思想史、理論史的な関心からアプローチしない場合、すなわち、我々はこちらから、折り合いをつけなきゃならない。それをどうするか。大変、難儀な課題である。

それにしても、引用文を読んでもらえば分かると思うが、全編こんな感じで、決定的に重要な引用と極度に縮約された地の文で構成されている。げに恐ろしき論文である。
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